アソシエーション論から
「社会とは何か」を考える

渡辺雄三(渡辺政治経済研究所)

2001年 11月15日
通巻 1093号

 1992年のソ連崩壊によって、レーニン主義の核心であった「国家の変革によって社会を変革する」とのテーゼは有効でなくなったことが明らかになりましたが、その代替案はというと、未だに議論が錯綜しています。「社会を変革する」というが、一体「社会」とは何なのか、現存している社会は人がこの世に生まれて以来今日までどのように変遷してきたのか、その辺の問題が今もって一向に明らかになっていません。
 こんな中で、田畑稔さんの「マルクスとアソシエーション」が出て、マルクスが社会における人と人とヨコの繋がりを示す言葉として「アソシエーション」を使っていたことが明らかにされました。このアソシエーション論から見た社会の歴史的変遷、そこから見える今後の課題について考えます。


戦国武士が日本を血縁社会から地縁社会に変えた

 人と人との最初の繋がりは親と子、兄弟姉妹、家族、親族等々の血の繋がりであり、最初の人間社会の形はこれを基本にした社会、血縁社会でした。それは厳しい自然の制約の中で暮らしている人にとって、自分がこの世に生まれて初めて体験しなければならない他人との関係だったからです。これはそれぞれの個人にとって選択の余地がありませんでした。
 そこから、農業生産力の発達とともに徐々に水利関係が整えられるに従って、それに基づいた社会、地縁社会が形成されます。日本でこれが形成されたのは武士が騒乱を重ねていた戦国時代を通してでした。
 それまで日本は血縁社会でした。NHKのドラマ「北条時宗」は律令国家が崩壊し武家国家=鎌倉幕府が生まれたにもかわらず、騒乱の絶えない非常に不安定な武家国家内部の姿を描いていますが、それはこの時代の社会が血縁社会であり、武家国家に相応しい地縁社会がないままこの国家が早産した結果でした。
 この時代は未だ兵農分離がなくその区分もありませんでした。農民から刀など武器が取り上げられ兵農分離が行われたのは豊臣秀吉が政権を取ってからで、「北条時宗」で鎧兜を着けて馬に乗って武士の恰好をしているのは一族の家長であり、その後ろに槍を持って従っているのは農民、「アルバイト武士」でした。
 江戸時代が200余年間、全国的な騒乱もなく比較的安定して過ごすことができたのは、その基礎に地縁社会があったからでした。血縁社会とは個々の小集団がそれぞれ相互の関連もなく広大な宇宙の中を漂っているようなもので、個々の血縁社会内では強固な血の繋がりによって結ばれているとはいえ個々の集団間に紛争解決のルールがないので、相互に非常に不安定な存在であり、折りあらば弱い者を見つけて滅ぼし自分の勢力を広げていこうという、相互不信で凝り固まった弱肉強食の社会でした。
 一旦盟約を結んだとしても、いつ相手がそれを破って自分の領土内に攻め込んでくるのか分からない、相互不信で固まった社会であり、それで騒乱が絶えませんでした。そして、一旦負けたら族長は首を切られ、彼らの家族は奴隷として使役されるのが、この社会の掟でした。


市民社会は無縁社会だが「縁」から人は逃れられない

 日本には「風土」という自然と文化を合わせた独特の概念があります。英語にはclimate(気候)という言葉がありますが、日本語の「風土」に相当する言葉がありません。自然と文化とを切り離さないで一体のものとして捉えるのは、ヨーロッパにも中国にもない日本独特のことです。それだけ日本人には日本という国土への思い入れが外国の人々と比べて強いのではないかと私は考えています。
 そうした問題意識から、無縁社会と日本人のことを改めて議論します。
 現在、私たち日本人は血縁とも地縁とも切り離され、無縁社会に住んでいます。このことを私が実感したのは今改めて思い返してみると、朝鮮戦争勃発とともに共産党が非合法化され、レポ係の仕事を始めた時のことでした。
 レポの家の主である老人は「昔は服装を見ていればその人の職業が分かったのに、今は誰もが背広・ネクタイで人の職業が分からなくなった」と言って、私にしきりにぼやいていたことを思い出します。これは今になって思い返すと、日本の社会が地縁社会から無縁社会へ転換した象徴的な出来事でした。
 朝鮮特需景気で金回りが良くなり、それが先ず労働者の服装に表れました。戦前のように、サラリーマンも労働者も同じ服装になり、外見では区別することができなくなりました。昔は同じ大工でも親方と子方の区別は服装から一見してわかりました。商家の丁稚も木綿の着物から急に背広・ネクタイで通勤するようになったのですから、老人が当惑したのも無理ありませんでした。
 地縁とも血縁とも切り離され、社会の中を蝶々のように自由に飛び交うことのできる存在となった人々。血縁とか地縁とか自然の制約から解き放たれ、自分の自由な意思に基づいて行動できる人達からなる社会が出現したのです。
 こうして、ブルジョア革命によって生まれた市民社会とは、無縁社会でした。だが、その無縁のはずの市民社会も目で見えない何かの縁で結ばれています。それが自然であり、貨幣です。貨幣から自由になるには貨幣を廃止したらいいのでしょうが、ことはそう簡単ではありません。貨幣を廃止したところでそれは人と商品との関係そのものに原因があるのですから、そこを変えない限り、別の形をした貨幣を生み出すだけです。
 それは人が自分の労働を投入して作った商品を交換する時、自分が作った商品の価値を評価するに際してその価値の評価を自分からから切り離し、他人の物差しによる評価に任せるという商品交換の仕組みそのものにあるからです。自分の労働を自分から切り離し他人の評価に任せて商品交換するという自己疎外がある限り、人の心の中に開いた空白が満たされることはありません。
 人と人との物を媒介としない直接の繋がり、これを保障する社会の仕組みが人と人との上下関係でない水平な関係であるアソシエーションの社会です。そこで貨幣は存在しますが、その機能は価値の交換手段でなく、単なる計算機能を果たす物に変質しています。
 マルクスは「資本論」第1巻の結語に相当する文章の中で、共産主義社会の姿について次のように述べています。
 「資本主義的生産様式から生ずる資本主義的領有様式は、したがって資本主義的私有は、自己が労働に基づく個別的な私有の第1の否定である。しかし、資本主義的生産は、一種の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定は、私有を再興するものではないが、しかしたしかに、資本主義時代の成果を基礎とする、すなわち、協同と土地および労働そのものによって生産された生産手段の共有を基礎とする、個別的所有を作りだす。」
 人それぞれはこの世に生まれて自分の人生の中で実現したいと願っている夢を持って生きていますが、個別的所有とはそれぞれの個人が持っている夢を実現するための所有です。だが、人は誰でも1人で生きられません。社会との縁無くして生きることはできません。
 マルクスは「所有」を多様な意味で使っています。この場合、個人と社会との縁を個別的所有と名付けているのに対して、この社会と集団としての人々との縁をマルクスは類的所有と名付けています。この個別的所有と類的所有との矛盾の狭間で生きているのが人であり、人が人である限り私たちはこの二つの矛盾の狭間から抜け出すことはできません。
 したがって、マルクスの言う「所有」とは仏教で説く「縁(えにし)」だと私は見ています。


私たちの拠り所「風土」を取り戻さなければ

 日本では突然の無縁社会の出現で、人々は自分の手に勝手に飛び込んできた自由を謳歌しようとして蝶のように舞い上がったと思ったら、突然地上に叩きつけられて血を流したり、頭を打ちつけて死んでしまったり、大変な混乱が起こっています。その混乱の後ろに見えてくるのは、このような社会ではないでしょうか。
 もう1つ、無縁社会には自然という制約があります。このことを地球上で最も良く知っているのは「風土」という概念を伝統的に大切にしてきた日本人です。これだけ不況が深刻化している今、荒廃した山河こそ私たちにとって最終の拠り所のはずです。河川の上流を荒廃させれば、そのツケが必ず下流に及びます。
 いま大津市で世界湖沼会議が開かれていますが、ここで琵琶湖の水質悪化が問題になっています。この原因は湖岸に住む人たちが流す生活排水だけにあるのではありません。琵琶湖に流れ込む河川の上流で山崩れが頻発し、そこから一斉に大量の有機質が流出しているからです。これをくい止めなければ、下流の大阪で人が住めなくなります。
 気候など自然条件とその上に育つ文化とを一体のものとして捉える「風土」という考えを持っている日本人はこの自分たちのこの特性に目覚めて、私たちを生み出した豊かな自然を取り戻さなければ、私たちは「亡国の民」として歴史にその名を残すことになります。類的存在である人は縁から逃れることができません。その時、自分固有の夢、個体性の実現をも手放さなければならなくなります。
 環境とはまさに類的所有そのものであり、全ての人を結びつけている縁の1つです。

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