川柳時評 |
新しい質よ党よと新時代
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乱鬼龍 |
2001年 10月15日
通巻 1090号
『報復は正義』と強弁する『ならず者国家』アメリカを始めとする軍隊のアフガニスタンへの戦争行動が、ついに開始された。 そして、この戦争に日本政府(小泉内閣)は、ついにアフガニスタンまで自衛隊を『派兵』するほどまで『軍国日本』の道を再び強引に歩み始めた。 私はもちろん、アメリカ帝国主義をはじめとする軍隊の今回の軍事行動を断固糾弾し、即時戦争行為の中止を要求する者であるし、また小泉内閣の『暴走』ともいえるような『戦争加担』行動もまた、断固糾弾する者である。 だが一方で、これほどまでに『憲法無視』の『暴走政府』を押しとどめること、打倒することすらできないような『戦後革新勢力』とか『護憲勢力』とか『労働組合』とかいった『総体』とは、一体何なのか という思いでもある。 それは、単に『根性がない』とか『やる気がない』とかいった『精神論』ではなく、今日の日本帝国主義が、どのような歴史的段階にあり、どのような方向へ進もうとしているか、また、現在の日本の階級構成は、本当に本当のところどうなっているのか、日本の労働者階級とは何か、誰か、その真の敵は誰であり、真の友は誰であるのか…といった文字通り、階級的革命的な分析と、その上に成り立つ『戦いの理論』など、とっくに劣化し、あるいは、持ち合わせてすらいない…といったところからくる『必然的帰結』であると考える。 だが一方で、今日の『危機的状況』を、文字通り肌で感じあるいは『直感』して、インターネットで見て初めてデモに参加しましたという若者たちや、赤ちゃんを抱いた若いお母さん、あるいは、しばらく『運動』から遠ざかっていたが、今日の事態の中では、何か行動しなくてはという思いで駆けつけた60年70年安保世代…といった『素朴』かつ『まじめ』な人々の結集とその力は、大変貴重であり大事に大きく成長させなければならないものであると考える。 だが、そう考えれば考えるほど、「戦後革新」とか「護憲派」とかいった『水準』でこの戦いの『指導性』を真に発揮し得るのかどうかが、現実の戦いの中で厳しくもリアルに問われているのではないか。 なまじ『中途半端』な『平和と民主主義路線』といった『体制内改良主義的理論水準』では『敵』の『攻勢』の前に、もはや完全に太刀打ちできなくなってきている、というくらいに厳しくリアルに私たちは、考えるべきであるし、そうでなければ、折角の『新しい芽』も『古い指導部』の『誤った指導の下』にそのエネルギーを空費し戦いの方向を間違い、ついには敗北の道へと突き進むような事態になり得ると私は考える。 だから私たちは、今までの『左翼の常識』『護憲派の常識』といった『全ての常識』といったものを全て疑ぐってみる程にも根底的かつ真剣な議論も学習もした上での、より本質的な深さを持った行動へ戦いへと自らを鍛え『組織』していくような戦いをめざして前進していかなくてはならないと思う。 そう思えば思うほど「戦後革新」の唱えてきたスローガンは、果して正しかったのか、その戦いとは、一体何でありどの程度のものであったのか、なかったのか、という思いが募る。 時代が今『新しい戦争の時代』だと言うのなら、私たちの戦いも(そしてそれに連なる働くということ学ぶということ生きるということといった全ても)真に新しい時代を戦い抜き勝利でき得るほどにも『新しい』『質』をそして『量』をも持ったものにしていかなければ、私たちにとても勝利の展望など切り拓き得ないという思いである。 そして、私たちに勝利への展望も確信もないとするならば、それは限りなく亡びへの道を急ぐということであり日本一国が亡びるということにとどまらず、世界が地球が『共滅』する『近未来』すら予測しうるような『世界史的な時代』を今私たちは、否応なく生きていると私は思う。 『古い指導部』を乗り超えていくことができるのは、それへの根底的批判を持った『より少数』の中からしか生まれないだろう。その『創発』こそが今緊急に求められている。 |
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