映画評

♪『蝶の舌』 もしくは、
存在のメタファーについての考察

木下達也

2001年 9月25日
通巻 1088号

■ 『蝶の舌』
(1999年制作/ホセ・ルイス・クエルダ監督作品/スペイン映画)


 1936年冬の終わりから、夏の始まりにかけて、まさに人民戦線派が勝利した頃からクーデター勃発までの緊迫した激動のスペイン。これから先、闇の中を真っ逆様に落ちてゆくスペイン、ガリシア地方の小さな村で、8歳のモンチュ少年は、グレゴリオ先生に出会った。
 「蝶の舌は、普段は巻かれていて見えない。蜜の匂いを嗅ぐと舌をのばし、花の蜜を吸うんだ」
 「ティロノリンコという鳥は、繁殖期になるとメスに蘭の花を贈る」
 ファシズムの陰が忍び寄るスペイン内戦前夜、激しく揺れ動く時代の中で、グレゴリオ先生は、モンチュに教える。
 かつて同じスペインの映画作家ビクトリオ・エリセは「ミツバチのささやき」で、内戦の暴力が吹き荒れた後の虚ろな世界の中で、吃音の少女を見事に描いたのに対してルイス・クエルダ監督は、その前夜の少年の姿を、存在のメタファーとして見事に映像化している。
 八歳のモンチュ少年の固体化形成(オプス)が、これ程までに美しく描かれていることに、羨望の念を禁じ得ない。行為と言葉が等価の状態にあり、レトリックも、増殖もない。素直な交換可能な状態を映画は、美しい森の中で描き出す。2人の間にだけ交換可能なパロールとしての言説が、映画の文体としてランガージュにおいて、行為する言葉を生み出し、映画がその運動性としての機能を逸脱した瞬間、そのほんの一瞬の瞬きに「美」は存在する。
 映画のラストシーン、広場に集まった群衆の前に、両手を縛られた共和派の人々が一人ずつ姿をあらわす。その中にグレゴリオ先生の姿が在る。見つめるモンチュ少年。彼らを罵る声が飛び交う。
 「アテオ!アカ!犯罪者!」
 彼らを乗せたトラックが動き出す。少年もその後を追う。カメラも必然的に動き出す。道端の石ころを拾い投げつけるモンチョ。それを見つめるグレゴリオ先生。思わずモンチョがささやく。
 「アテオ!アカ!犯罪者!」
 加速するカメラワーク。カットバックするとモンチョが叫ぶ。
 「ティロノリンコ蝶の舌=v
 やがてカメラの運動性は止まり、グレゴリオ先生の目線で固定(フィックス)する。その目線のまま、カメラを乗せたトラックは村を後にする。
 何という見事なシーンであろうか。これから何が起ころうとも、蜜を求める人の気持ちだけは決して変わらない。欲しがる心、時に我儘に残酷に、蜜を味わおうとする抑えきれないこのリビドーの発動。去る者が残された物に伝えた唯一無二のメッセージ。叫んで走るモンチョには、去り行く先生にはない明日がきっとある。痛ましい時間と歴史を抱えながらも、明日に向かって伸びゆく唯一のものは、蜜と愛を求めて姿を表すその「蝶の舌」だろう。
 映画『蝶の舌』は、「愛」と「自由」と、そして裏切りを超えた「希望」を描いた、存在のメタファーである。


(木下達也)

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