映画評 |
♪「PLANET OF THE APES」
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木下達也 |
2001年 7月25日
通巻 1083号
かつて若松孝二氏は「天使の恍惚」において、孤立した先鋭が世界を変えることが出来るか!と問うたが、2029年謎の猿の惑星では、鍛えられた戦闘集団のトップに王位継承によるチンパンジーのボス、セード将軍が君臨していた。抑圧された人民は盲目的に自分たちのリーダーの出現を期待する。「風の谷のナウシカ」の少女は自らが異国の青い服を纏い、金色(こんじき)の野に降り立ち、再生神話を具現化してゆく。村落共同体が他者との「交通」を考えるとき、「もののけ姫」のアシタカは共に生きる道を模索してゆく。神が死滅したとき、伝説が生まれ、語り部が物語を形象化してゆく。今、映画は真の語り部たり得ていないが、「猿の惑星」のラスト近く、類人猿が、禁断の地(伝説の発生した場所)へおいやられたホモサピエンスと対決する場面を、私はかつて黒澤明の映画で何度も目にしていた。 セード将軍の演技が、三船敏郎の立ち振る舞いに類似していると感じたのは私だけだろうか。一介の水飲み百姓が鍛えられた戦闘集団に加わったとき、アナーキーなダイナミズムが爆発する。映画の運動力学と、人民の思いがシンクロした瞬間である。そう言えば、「ターミネーター」のリーダーもドライブインのウエイトレスだった。人民の思いを具現化するリーダーが人民の中から自然発生的に立ち上がって来る。 「猿の惑星」のエンディングはお話しできないが、小泉首相が描く未来図よりも、私は三船敏郎のニセ武士の出現を期待する。 ちなみに、映画「七人の侍」で仲間の武士たちに、三船は『猿』と呼ばれていた。
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人民新聞社
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