「改革」を考える

「投票」とは政治家への「丸投げ「ではない

渡辺雄三(渡辺政治経済研究所)

2001年 7月15日
通巻 1082号

 久しぶりの「改革」政権の出現に国民の大多数の人々がその陶酔感に酔いしれ、犠牲をも甘受する覚悟でいることをマスコミ各社の世論調査が示しています。だが他方で、この国を取り巻いている国々を見ると、韓国や中国はわが国の歴史教科書検定を批判し、国家間の関係だけでなく民間交流にも中断の動きが広がっています。また、小泉首相は敗戦の日における靖国神社参拝を公言し、それによって近隣諸国の人たちの神経を平気で逆撫でしようとしています。
 こうして、小泉純一郎を先頭にして大多数の国民は「内向き」になり、「改革」が周辺国の人々にどのような反応を引き起こしているのか、久しぶりの「改革」リーダーの出現に陶酔したこの国の人々は、彼らに気を遣う精神的な余裕すらなくしています。ここに小泉「改革」が抱える危うさ、その限界が現れています。
 何故、こんなことになるのでしょうか。その問題を議論していきます。
 「改革」とはいずれの人々も持っている自分固有の夢を実現することにあります。にもかかわらず、彼らはその夢を自分自身に元々備わっている固有の力で実現しようとせず、それを自分から切り離してしまい、「投票」で他人(この場合は小泉首相)にその全てを託してしまおうとしています。
 だが、人は誰もが自分に固有の夢を持っています。そして、彼らはこれを人生の中でいつかは実現しようと望んでおり、その中の公共の部分に関しては政治を変えることによって実現しようとします。
 だが、民主主義政治の下では1人1票制ですから、公共に関する夢を実現するには自分が政治家として選挙に立候補する場合は別にして、それ以外の人たちはその夢を実現しようとの思いを政治家に託する以外にありません。
 だが、よく考えてみれば、それぞれの人が持っている夢は千差万別であり、しかもそれぞれの夢を実現するのはその人に元々備わっている固有の力によって初めて実現されるはずです。
 したがって、それぞれの個人がある候補者に投票するとは自分の夢を候補者に「丸投げ」することではないはずです。投票とは自分の夢と立候補者が掲げた公約とが部分的に一致しているから、その候補者に自分の1票を投じたにすぎません。
 そして、自分の夢の実現のために一致することろでは一致して行動し、一致していないところでは自分の力で、そして他人との協力を得てそれを実現しようと行動するのが、民主主義政治の基本です。民主主義政治の土台として基本的人権の保障がありますが、基本的人権の保障には表現の自由、政治活動の自由があらゆる諸個人に保障されなければならないとの意義も、ここにあります。
 それは代議制だけでは民主主義政治は保障されないからです。それゆえに、民主主義政治は絶えず腐敗、空洞化の脅威に晒されてきました。
 「投票すれば全て終わり」は民主主義の腐敗、民主主義の自己否定を招いてきたのが歴史の教訓です。1848年革命によって、フランスで人類史上初めて普通選挙権制度の下で大統領選挙が実現しましたが、これで大統領に当選したルイ・ボナパルトは、議会を解散し帝政を敷いてしまいました。ドイツにおけるナチスの台頭、ヒットラー独裁政権の誕生も普通選挙制を通してでした。
 その根底にあるのはそれぞれの人が自分の固有の夢とそれを実現する力を持っているにもかかわらず、その夢の実現を投票という行動を通して全て政治家= 他人に託してしまおうとしていることにあります。この現象をマルクスは「自己疎外」と名付け、それが貨幣経済に裏付けられていることを明らかにしました。
 それゆえに、人は貨幣経済を克服するまでは民主主義政治をかち取ったとしても、絶えずその否定、空洞化の脅威に晒されているのであり、これを防ぐには個人の政治参加、個人の政治活動によって代議制を絶えず補強していかなければなりません。

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