己の首を絞めるのは誰か

和歌山・仏教解体

2001年 8月15日
通巻 1084号

 哲学は疑うことから始まると言う。当たり前と思っている既成の教え、例えば仏教、論語、諸々の思想など、あるいは既成の制度、組織だ。例えば、国家、学校、法律など存在することをほとんど無意識的に是認していることが多い。特に孔子、シャカはエライとか、教えは立派とか、信仰視さえする人がいる。一見ナルホドと思わせる孔子の教えなどは、政策として当時どこの国にも、ほとんど採用されず、孔子本人は遊び人よろしく諸国をほっつき歩いた。シャカの仏教なるものの悟りなどと意味不明なことをほざき、坊主共は時の権力と結びついて我が身の利を貪り、民を欺き続けてきた。
 論語、仏教を尊ぶ輩は孔子、シャカを絶対視、神聖視し、孔子、シャカを批判すれば、それこそ「神を恐れぬ不遜な」とわめき立てる。愚かな話である。
 自分のアタマで物事を判断しない人々が陥る罠こそ「絶対視」「神聖視」なのだ。保守反動につけ入られる隙である。小泉大勝などは如何に物を考えない人間が多いかの何よりの証明だ。失業率、株価など客観的データを見れば小泉・竹中の言っていることが詐欺師張りの口先三寸であることは見え見えではないか。
 小泉と握手してもらったと喜々としているオバちゃんをテレビで見たが、醜悪至極であり、己の首を絞める者が誰であるか、言ってることと事実を見比べれば簡単にワカル。しっかりせなドエライことになるぞ。               

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人民新聞社

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