どのように総括し、どのように評価・批判等を持つにせよ、20世紀という時代が終わった。
そして、どのような希望があるか、ないか。不鮮明で混乱に充ちているか、ともかくも21世紀という新しい世紀が今始まった。
振り返って、20世紀の世界と日本、そして自分自身の「ささやかな個人史」をも重ね合わせ考えてみるとき、多くの点で反省や悔恨の「苦渋の念」に充ち充ちているといえよう。
そして、そうした批判や懺悔の念をどれだけ深く掘り下げ、どれだけ深く総括し、どのように新世紀という時代に活かしていけるのか。
まさに、そうしたことが根底から問われ、求められている新世紀の出発点だと言えるのではないか。
そのようなギリギリとした思いで、この国の全体を考えると、まさに、政治も経済も環境・福祉・教育・農林水産業……といったありとあらゆるものが「21世紀的矛盾と限界」に突き当たり、その誤りや破産を如実にさらけ出している――というのが、20世紀「終末」の世界と日本、そして私たち個人の「ゆりかごから墓場まで」の「惨憺たる姿」ではないか。
そんなこんなの思いや、自己批判をも重ね合わせて、自分なりに新世紀への展望や出発をどのように考え、導き出すべきか……などと考えるとき、21世紀という新しい時代には20世紀「負の遺産を全て「反面教師」として「肥料」とし、新しい芽を発芽させるくらいの発想も「必死の努力」もなければ、とても活路など見いだせないであろうと思う。
そして、そのような立場から「政治」「経済」といった「国家的」なものから、私達一人一人の「働き方」「食べ方」「住み方」「生き方」「コミュニケーションの仕方」「消費の仕方」「学び方」・・・・・・といった全ての面にわたる事柄を、本当に本気になってその根底から変えていこうとしなければ、私達には小さな前進すらもないだろうという思いがする。
そんな立場から考えるとき、たとえばこの国の「議会制民主主義」は、もはや「議会制民主主義」と呼ぶにさえ値しない「死に体」であり、「腐ったコップの中の水」でしかない。「野党」という存在もまた、そのコップの中の「お仲間程度」にしかすぎない――というところまできていると言って言い過ぎではないだろう。
だからこその「低投票率」であり、「無党派層の増大」なのであって、また、昨年の長野・栃木県知事選、および東京の川田選挙に「突出」したような反乱なのであって、「死に体」なのは「与党」の側だけでなく「既成政党」もまた同罪なのだという天の声を私たちは厳しく聞くべきだと思う。
そのような意味で私たちは、21世紀の入口に立って、今までの「全ての常識」を打ち破って、政治とは選挙とは人生とは、そしてその他の
etc、とはいったいいかなるものであり、いかなるものであってはならないのか!?……
等々のことをもっともっと根源的にそしてまた「素朴かつ大胆に」考え、発想し、行動する新しい時代にすべきだ、そうしたいと思うこの頃である。
しかし、そのような発想や「新しい思想―哲学」といったものがある日突然、天から降ってくる、などということはないというのもまた白日の理というものだろう。
だから、そのためには私達はもっともっと本当に、ホンモノの学習もしなければならないだろう。
そしてそのためにはまた「働き方」や「暮らし方」「生き方」といったものの「自己変革」を迫るものになるだろう。
世界の、日本の変革と、自分自身を変革していくことが重なり合い、世界と日本とそして会社や地域の中で闘っていくことと、自分自身の弱さや矛盾と闘っていくことが重なり合い、「ひとつ」になるという「弁証法」の中に、私達の21世紀の希望は存在すると考えている。
新しい時代の門出なればこそ、私達はまず「我が信念」の根底を問う新年であり、世界を変革するためには、自分の行き方をもっともっと変えなければ、とても闘えないような時代と世界に生きているということをより強く深く実感せねばと思うのだ。
新春・狂歌 ★乱鬼龍
|
元日や今年もあるぞ大晦日ないと思うな地震恐慌
正月をこんな程度の政治家が揃いも揃い初笑いする
フトコロは寒く政治はなお寒く
地球ばかりが温暖化する
森無能民主はグズで共産は現実路線などとあきれる
初詣すでに神なく仏なく職なく金なく際限もなし
正月のどこがめでたいホームレス
資本の風の冷たさを知る
アメリカのバブルはじけて大恐慌
ブッシュブッシュと荒波が寄せ |
|