川柳時評●乱鬼龍

革新という水準が高くない
左翼的常識を問え 我を問え

 

2001年 2月25日
通巻 1069号

 昨年夏の、沖縄サミットをめざしての「基地ノー、ヘルプ・ジュゴン全国キャラバン」に「隊長」として参加して以来、東京の諸団体や諸運動に渡世の義理≠ェ重くなって、最近は半分、東京の人≠ニいった感じで、今まで、北関東の一地方にあって、東京から送られてくる「機関紙誌」や「通信」といったものを読んでいるだけでは(読んでいるだけでも、それほど感心はしていなかったが)到底、分からなかったであろう東京の左翼の、市民運動の……∞内実≠竄辯水準≠竄轤ェ、文字通り、リアルに視えてきて、実にいい勉強をさせてもらっている。
 もちろん、まだまだ「その全体像≠フ一部を、お前は、少しばかり得ているに過ぎない……」というお叱りもあるかも知れないが、東京の(より正確に言えば、日本全体の)左翼≠ニか革新≠ニか護憲派≠ニか市民運動=c…とかいった水準≠ェ決して高くはない……というのは、悪口ではなくて紛れもない事実≠セと私は思う。
 決して高くはない水準≠フ人たちが、あれこれと「方針」やら「行動」やらを提起するのだから、それは、限りなく「たたかうごとにあやうし」という世界であり、かぎりなく誤謬に充ちているとしても、なんら不思議ではない∞事実≠セと思う。
 だが、逆に「この程度の国民だから、この程度の政治なのだ」という迷言≠ェあるように、日本の「左翼」「革新」「市民派」等の水準の低さは、日本の労働者人民の水準の低さでもあるとも言えるだろう。
 どちらか一方が一方的に高くて、どちらか一方だけが一方的に低いということもまた、あり得ない話ではあるだろう。
 だが、それでもなお「左翼」だ「革新」だ「市民派」だという人達は、労働者人民に向かって声を発している側として、その責任があり、重いと考えるのは当然だろう。
 個々人の思想や主義の誤りならば、自己責任ですむことかも知れないが、「党」や「団体」を名乗って行動し、主張する以上、自らの理論とその水準に対して、常に厳しく謙虚な自己省察と点検の根本的姿勢や、より高い水準へ自らを成長、発展させようとする調査や学習といったものも、より一層強く求められると言うべきだろう。
 だが、(個人でもそうだが)はたから見れば大した水準とは思えない「党」や「団体」ほど、自らの水準≠温存≠オ、あるいは、ぬるま湯的状況に安住し、楽な道≠歩んではいないか。
 自らの主義主張に対する「自信」「自負」といったものと「過信」や「自惚れ」とは違う……といったことを、謙虚に受け止めることのできる「マルクス主義者」とか「活動家」とかいった人々は、一体どれくらいいるだろうか。
 「マルクス主義とは、人類の英知の総和である」(レーニン)という言葉があるが、マルクス、レーニンを、少しばかり解釈したり、評論したりする程度の人たちをマルクス主義者とは言わない……という風に言えると私は考えるのだが、諸党派がらみのマルクス主義者≠スちと話をしていて、この人は実によく勉強している人だなと感心する程の人物に、ほとんど出会ったことがない。
 マルクス、レーニンらの話は少しばかりできても、日本の人民の歴史や文化、文学、芸術、農山漁村、治山、治水……といったことに縦横の£m識や哲学を持った「活動家」などというものを、ほとんど知らない。
 「知らざるを知らずという、是、知るなり」(論語)という言葉もあるように、物を知らないということが罪なのではない。知らないということをしっかりと自覚し自省できるほどにも、物を知らないということが罪なのである。
 「衆愚は天に愚にならず」(田中正造)という言葉もある。「左翼」だ「革新」だ「インテリ」だといえば、その「方針」や「理論」が全て正しくて、これを批判する奴は物の分からない、無知で、権力の側を利する者だ……などというオゴリ≠ニ自惚れ≠ェ「左翼」の側に根深くありはしないか。
 その辺の自らの常識≠竍水準≠鏡にでも映して、厳しく深く、自己点検し、自己変革できるくらいの水準にまで、自らを高めようとするくらいの謙虚さも気概もないようでは、ますます「たたかうごとにあやうし」であり、この国の根底からの、革命的変革など夢のまた夢というべきだろう。
 果して、それだけの重い思い≠ェ、ありや、なしや。

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