すべての原潜こそ永久に海底に眠れ!

竹林 伸幸

2001年 3月5日
通巻 1070号

 今回の原潜とえひめ丸の激突、沈没「事件」は、原潜という核兵器、日米軍事同盟、洋上を問わずすべての軍事訓練、軍隊そのもの……等の持つ問題点を一挙に、そして白昼公然と明らかにしたのではなかろうか。こういう日本語の使い方は許されるのだろうか、いささかの躊躇(ちゅうちょ)を感じながらもあえて事の大きさを明らかにするために用いてみると、私たちは上記の問題点を大衆的に明らかにして、民衆の立場から解決を迫るべく今日まで奮闘、努力を重ねてきた。しかし私たちの前に立ちはだかるハードルはあまりに高く、その前で吐く息にはときにはため息すら混じることもあったのではなかったか。それが今回の「事件」によって上記の問題点は高くハードルを乗り越え、人々の胸中に直接グサリと届いたのではなかろうか。日本全土を覆う深い悲しみと怒り、そしてことの成り行きにただ狼狽する米国政府や軍部の姿はマスコミ報道を通しても私たちは手に取るように実感できるし、ピンポイント爆撃などというふざけた「高度の軍事技術」と、「初歩的で、常識はずれで、人命を軽視した今回の事件」との組み合わせのなかに軍隊の本質を見ることもできる。今回の「ハードルを越えた」事態の急展開は、「敵失」によってもたらされたとも言えるし、私たちの闘いが「敵失」を生み出すところまで追い込んだという言い方もできるであろう。要はこれをきっかけに上記問題点をより深くより大衆的に追及し、沖縄をはじめとするすべての基地撤去、原潜をはじめとするすべての核兵器廃絶、米軍をはじめとするすべての軍隊の解体に向けて、一層力を合わせて進むことではなかろうか。
潜水艦のイラスト 残されたスペースを「原潜という核兵器」問題に絞って2、3コメント。
 原潜がかくも身近にいることの恐怖感を再認識、今回の事件は核とは直接つながらなかったが今後「核の惨劇」とつながらないという保証はどこにもない。今後も海底を「自由自在」に動く限りむしろ一定の確率で「事件」が起こるというべきではないのか。
 原潜(核兵器)の存在に慣れることの恐怖。私たちは沖縄や日本の港に原潜が寄港する回数が多くなると、いつのまにかそれに対する抵抗感が薄れていくことはないか。それは日本の軍事予算が「世界第二位」になったといわれてもピンとこないのと似ている。慣れほど恐いものはない。
 ロシアの原潜事故を思い起こすことの重要性。国境とは関係なしに核問題や被曝事故は発生しているのに、被害の側が国境や民族にとらわれているのはおかしい。「ロシア原潜」と「えひめ丸」とでは私たち日本人の受け止め方にあまりに大きな「温度差」はなかっただろうか。

 

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