仏教をよむ

 「ペンよ奢ることなかれ」 

蓮 月

2001年 3月25日
通巻 1072号

 よくよく考えてみると、今現在、私の坊主歴は21年(社会)運動歴20年、文筆歴も20年、加えてダンス歴!は13年だ。よくよく考えなくてもそうなのだが、ということは、坊主と運動と書くことが同時進行できたということである。
 というのは、私が大谷派の教師検定試験を受けるその試験範囲に部落差別の問題があり、また宗祖親鸞の生きざまがそのことと重なって私の胸にぐっと迫ってきたことで、以来さまざまな社会問題、運動に関わることになったのである。その中で、それはもうすばらしい人、人との出会いがあったのは言うまでもないが、同時にまた、「??」と疑問に思うこともあった。
 それは「二極思考」「二元論」と言って、物事何でも2つに分けて、こちら○であちら×と、一方を絶対化する考え方だ。「反弾圧」で闘ってきた者としては、当然「反マスコミ」「反警察権力」となる。もちろん、その怖さは充分に認識する必要があるし、実際冤罪事件の時にはそれはとても大きな力になりうるのだけれど、マスコミ・警察が賞賛あるいは協調していると思えるものは必ずうさんくさい、というのもまた真実ではない。
 分かり易い例えからいこう。例えば、マスコミに賞賛され、「仕事をやめて結婚します」となった山口百恵はフェミニズムの視点からも×で、マスコミによく叩かれ、「仕事も結婚も子どもも」の松田聖子は○だとかetc.
 中でも最近私が怒っているこの類の例は、「野村沙知代被害者論」と、「乙武洋匡さんの『五体不満足』」批判だ。つまり、前者はマスコミで叩かれており、後者は賞賛されているというわけ。そのようなズレた「人権論」「差別論」が起こるのはむしろ「社会派」とされる人たちに見られるのは皮肉としか言いようがない。
 そのようなことで、もう1つ起こっている例が、月刊「創」(つくる)の宗教ジャーナリスト室生忠氏による浅見定雄さん批判である。室生氏は、連載「知られざる強制改宗めぐる攻防」と題し、統一協会に入ってしまった子どものことで相談を受け、関わらざるを得なくなった浅見さんのことを、統一協会出版物を根拠に「強制説得」「拉致・監禁」の中心人物だと決めつけたのだ。(結果、浅見さんは名誉毀損で裁判に打って出られた。)
 この雑誌、「創」の感覚こそが、正に私が言いたい「ズレた」人権派の典型だろう。
 おまけに、本人らは「人権派はこう闘うのだ」と善人気取りでやっているのだから、とりつくしまがない。時には「世間の奴らはバカで目覚めてないからわからないだけ」という差別意識も働く。(アレ、それってオウムと何か似てない?)
 そう、どこかカルトと似ている。つまり、「善と悪」「○と×」思考である。
 一方で、確かに彼らが批判する世間の人々の中に、マスコミや警察の報道をうのみにして、冤罪には思いもはせず、「カルト、おお怖い。人を殺した者は死でもって償わんと」と、死刑問題に無理解な人が少なくないのもまた事実だ。
 大事なことは、双方が、人の意見にも耳を傾け、物事を個別にもとらえ、自分自身のもってきた価値観を今一度点検してみることなのではないだろうか。
 仏教の中道とは、不自然な肉体的修行と怠惰な生活態度のどちらをも離れることをも意味するが、同時にまた「二極思考」「二元論」をも相対化する視座のことでもある。
 浅見定雄さんと、これまた統一協会問題でご苦労いただいている杉本誠牧師は、私が最も尊敬している宗教者だ。私が友人関係と前身・「支える会」のことで落ち込み、涙していた時に、どれだけ御2人に支えられ励まされたかは測り知れない。またカルト問題で学ばせていただく『先行く人』でもある。その御恩に報いてお返しをせずにはおれないというのが、仏教で学んだ『往相回向』と『還相回向』なのだと了解している。
 室生忠氏や「創」の編集長篠田博之氏よ、あなたたちは『善意』でもって、事に対処する結果、人間としてとりかえしのつかないことをしようとしているのだ。
 机に向かって理屈だけを並べたてるのでなく、人間・浅見定雄という人、そして統一協会というものの『実相』をみるべきである、と仏教者としては進言しておこう。

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人民新聞社

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