女川原発差し止め裁判の19年を顧みて

女川原発訴訟支援連絡会議発行

「鳴り砂」No.178より

2001年 4月5日
通巻 1073号

 1967年6月、女川町が原発誘致にあることを知った私たちは、漁民を中心に反原発運動を組織し原発阻止の闘いを展開した。
 こうした中で、東北電力・県・女川町それに利権屋が一体となった行政権力による恫喝・札束攻勢など、露骨な懐柔策を駆使しての漁民をターゲットにした漁業権収奪の攻撃と対峙し、放射能や温排水から生命と漁場を守るため、闘いを展開した。しかし13年にわたる攻防の末、ついに漁業権が収奪され、危険な原発の着工が余儀なくされてしまったのである。
 それだけに原発が運転稼働へと進むことは、私たち住民はもちろん全ての人々に危険が迫ってくるわけで、私たちの反原発の闘いは一層重要であり、新たな闘いとしてこれまでの現地闘争を重視しつつも、1981年12月26日東北電力を被告に女川原発差し止め訴訟を起こしたのである(この裁判闘争は、東北電力の根拠のない安全性と原発建設に向けた漁業権収奪に至る悪行を暴くためのものであった)。
 こうして私たち原告は、原発問題に関する専門家を証人に立て、原発建設の不当性の論戦を展開したのに対し、原発は安全だと主張してきた被告東北電力は、当然ながら安全性の根拠を立証する立場にありながら、何一つその術をつくすことのないままに、13年を経た1994年1月31日、仙台地裁は、私たち原告の訴えを斥ける「怒髪衝点」の判決を下したのである。
 当然ながら私たちは、仙台高裁へと闘いの駒を進め、原発推進を固持する東北電力の反社会的行為を糾弾し、原発建設差し止めを迫る論戦を展開するも、ここでも東北電力は安全性を立証する根拠を示すことなく、ただ逃げに終始し、こうした中で1993年3月31日、仙台高裁は、私達原告の主張を認めながらも「司理滅裂」の判決を下した。
 この裁判を不服として私たちは4月14日、最高裁に上告したのであるが、この最高裁は1年8ヵ月もほったらかしの末に2000年12月19日、上告棄却の決定を下したのである。こうして女川原発1・2号機の差し止め裁判は、否応なしにこれで終止符を打つことになったものの、反原発の闘いはこれからが本番である。 今あらためて19年にわたる女川原発差し止め裁判を回顧するに、原発をめぐる情勢は人類滅亡につながる事故の頻発を受けて脱原発に向かっているのに、そのような世界の潮流に逆行した、国家権力に追従して原発建設を許す立場に立った今回の司法の判断は、3権分立(立法権・行政権・司法権)といえるものでなく、3権一体の正に住民に敵対する行為に外ならない。
 私達は、この裁判闘争を教訓に、3権を1つのものとして捉え、それらと徹底的に対峙し、反原発に向けて一層頑張っていく決意である。

(原告団長・阿部宗悦)

▼女川原発訴訟支援連絡会議発行「鳴り砂」No.178より/tel022―286―1586

 

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