人は誰でも何らかの形で共同体を作ることなしに生きていけません。新たな個の自立に相応しい共同体の形成が進みつつあります。たとえば、最近の無党派知事の当選がその例です。高知、宮城から始まって、東京、長野、栃木、千葉とその輪を広げています。
それに対する保守派の反応が森首相の「神の国」発言であり、「作る会」の歴史教科書の検定合格です。旧来の共同体の解体を前にして発想力の貧弱な彼らはその対応策として戦前回帰しか思いつきません。
千葉県知事に当選した堂本曉子さんの選挙運動をテレビで報じていたところによると、彼女が下から沸き起こるような風を感じたのは投票日の3日前でした。それまで彼女は宣伝カーの上に乗らず、演説は地べたの上に置いた箱の上からでした。堂本さんは街頭を歩く1人々々にマイクを向け、ひたすら同じ高さの目線から対話を心がけました。
それが投票日の3日前になって突然、風が吹きはじめたと言います。それまで距離を置いていた町行く人たちが彼女に駆け寄ってきて、握手を求めるようになりました。
私はこれを新たな個の自立に相応しい共同体形成願望の現れではないかと見ています。
携帯電話の爆発的な普及によって、これまでのタテのコミュニケーション回路が断たれます。学校における教師と生徒、家庭における親と子、このタテのコミュニケーション回路を使わなくても、若い子らは携帯でヨコのコミュニケーションを取ることができるのですから、これまでタテのコミュニケーションに安住していた学校における教師や家庭における親の権威が崩壊します。
だが、この行き過ぎに気づき崩壊する共同体に危機感を持った人々は、それぞれの自立した個の姿に相応しい新たな形をした共同体の構築に乗り出しています。この流れを旧来の姿の共同体を保守することよって押し止めようという勢力との間で、いま激しい抗争がいまこの国の中で演じられています。
それではこのような状況の中でどのような経済の明日の姿が見えてくるのでしょうか。
それはモノの豊かさを求める経済に回帰することでもなければ、カネの豊かさを求める経済に回帰することでもありません。日本人はこの2つの失敗にもうこりごりしています。
結局、前に進むことしかありません。それはカネによってココロを満たそうしてできたココロの中の空白を満たしてくれる経済です。だが、カネによってココロの空白を満たそうしてもその空白を全て埋めることはできません。
バブル崩壊後、家庭の無償のサービス労働であるシャドウワークの有償労働への置き換え、幼児教育、保育所などさまざまなサービス事業が普及しました。だが、その過度な普及は親と子の関係を引き裂き、家庭や育児などでさまざまな問題を引き起こします。
それで人々が求めているのはカネでココロを満たすのか、それが駄目なら無償のサービスで満たすのか、という二者択一の選択でなく、カネを使いながらもカネに振り回されないでココロの空白を満たす経済の姿ではないか、と私は考えています。
これは今、
で動いていることを見れば、そこにヒントがあります。エネルギー源の原子力、石油から風力、太陽光など環境に優しいものへの転換が進んでいます。経済性からすれば原子力や石油の方が有利ですが、カネを使いながらもそれに振り回されずにココロ─将来の安全を買う─を選択しているのが
の現在の姿です。
先日、テレビを見ていたら、和歌山県の荒廃した森林で植林をする市民ボランティアの姿が映し出されていました。私も数年前に和歌山の山のなかをドライブしていた時、森林の荒廃には驚きました。この県は特に日本の中でも植林の先進地域で、山の急斜面に杉や檜など経済的価値は高いが根の浅い木を一面に植えたため地崩れが起き、緑色に染まった山の斜面一面に赤い地肌が露出し、まるで人の肌がめくれてそこから血が吹き出しているようで、私も大変痛々しく感じました。
そんなところへ市民が出掛けて無償の植林ボランティアをしていました。宮城県や広島県で海で牡蠣の養殖ができなくなった原因が上流の森林の荒廃にあることに気づいた漁師が市民に呼びかけて、その上流まで行って植林をしています。
都市にもさまざまな
の活動が始まっていますが、こんなことに振り回されないで上手にカネを使ってココロの空白を満たそうとする経済の歩みが、日本でも生まれています。
人は誰でも何らかの形で共同体を作ることなしに生きていけません。新たな個の自立に相応しい共同体の形成が進みつつあります。たとえば、最近の無党派知事の当選がその例です。高知、宮城から始まって、東京、長野、栃木、千葉とその輪を広げています。
それに対する保守派の反応が森首相の「神の国」発言であり、「作る会」の歴史教科書の検定合格です。旧来の共同体の解体を前にして発想力の貧弱な彼らはその対応策として戦前回帰しか思いつきません。
千葉県知事に当選した堂本曉子さんの選挙運動をテレビで報じていたところによると、彼女が下から沸き起こるような風を感じたのは投票日の3日前でした。それまで彼女は宣伝カーの上に乗らず、演説は地べたの上に置いた箱の上からでした。堂本さんは街頭を歩く1人々々にマイクを向け、ひたすら同じ高さの目線から対話を心がけました。
それが投票日の3日前になって突然、風が吹きはじめたと言います。それまで距離を置いていた町行く人たちが彼女に駆け寄ってきて、握手を求めるようになりました。
私はこれを新たな個の自立に相応しい共同体形成願望の現れではないかと見ています。
携帯電話の爆発的な普及によって、これまでのタテのコミュニケーション回路が断たれます。学校における教師と生徒、家庭における親と子、このタテのコミュニケーション回路を使わなくても、若い子らは携帯でヨコのコミュニケーションを取ることができるのですから、これまでタテのコミュニケーションに安住していた学校における教師や家庭における親の権威が崩壊します。
だが、この行き過ぎに気づき崩壊する共同体に危機感を持った人々は、それぞれの自立した個の姿に相応しい新たな形をした共同体の構築に乗り出しています。この流れを旧来の姿の共同体を保守することよって押し止めようという勢力との間で、いま激しい抗争がいまこの国の中で演じられています。
それではこのような状況の中でどのような経済の明日の姿が見えてくるのでしょうか。
それはモノの豊かさを求める経済に回帰することでもなければ、カネの豊かさを求める経済に回帰することでもありません。日本人はこの2つの失敗にもうこりごりしています。
結局、前に進むことしかありません。それはカネによってココロを満たそうしてできたココロの中の空白を満たしてくれる経済です。だが、カネによってココロの空白を満たそうしてもその空白を全て埋めることはできません。
バブル崩壊後、家庭の無償のサービス労働であるシャドウワークの有償労働への置き換え、幼児教育、保育所などさまざまなサービス事業が普及しました。だが、その過度な普及は親と子の関係を引き裂き、家庭や育児などでさまざまな問題を引き起こします。
それで人々が求めているのはカネでココロを満たすのか、それが駄目なら無償のサービスで満たすのか、という二者択一の選択でなく、カネを使いながらもカネに振り回されないでココロの空白を満たす経済の姿ではないか、と私は考えています。
これは今、
で動いていることを見れば、そこにヒントがあります。エネルギー源の原子力、石油から風力、太陽光など環境に優しいものへの転換が進んでいます。経済性からすれば原子力や石油の方が有利ですが、カネを使いながらもそれに振り回されずにココロ─将来の安全を買う─を選択しているのが
の現在の姿です。
先日、テレビを見ていたら、和歌山県の荒廃した森林で植林をする市民ボランティアの姿が映し出されていました。私も数年前に和歌山の山のなかをドライブしていた時、森林の荒廃には驚きました。この県は特に日本の中でも植林の先進地域で、山の急斜面に杉や檜など経済的価値は高いが根の浅い木を一面に植えたため地崩れが起き、緑色に染まった山の斜面一面に赤い地肌が露出し、まるで人の肌がめくれてそこから血が吹き出しているようで、私も大変痛々しく感じました。
そんなところへ市民が出掛けて無償の植林ボランティアをしていました。宮城県や広島県で海で牡蠣の養殖ができなくなった原因が上流の森林の荒廃にあることに気づいた漁師が市民に呼びかけて、その上流まで行って植林をしています。
都市にもさまざまな
の活動が始まっていますが、こんなことに振り回されないで上手にカネを使ってココロの空白を満たそうとする経済の歩みが、日本でも生まれています。
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