穿たねば視えず 視えねば闘えず

根底を穿てば みんなこの程度

乱鬼龍

2001年5月5日

通巻 1075号

 このところ以前にも増して、自分は物を知らないな、物事をよくわかっていないな、わからないこと知らないことだらけだな、というようなことが今までにも増す実感として感じられ、深く思うようになってきた。これは生意気なことを言うようだが、私自身の勉強や思索がようやくそこまでたどりついてきた「前進」の証明でもあり、今までわからないこと知らないことを、あたかもわかっているかのように知っているかのように思いこんできた自分自身よりは、少しは物事がわかってきた、見えてきたということを示すことでもあると思う。
 そして、これも生意気なことを言うようだが、物を知らないわかっていないというのは、何も私個人の「特別なこと」ではなく、今の世の中の全体の人々の「意識」が、「レベル」が、みんな似たり寄ったりなのであって、「学者、文化人」とか「政治家」とか「左翼」とか「インテリ」とか称しても、それもまた似たり寄ったりでそれほどの違いはないと考えるくらいで「ちょうどよいくらい」ではないかと考え、思い到るようになってきた。そう思うと、いろいろと「無理な力」が抜けてきて、だんだん自然体になってくる自分に気づく。
 そうすると、今までみてきたものの事実関係が、実は黒が白であり白が黒であるという風に、大分逆転してみえてくる。
 また、この間の東京界隈の「元全共闘」、「新左翼」、そして「市民派」といった人たちの「この程度ぶり」が、今まで以上にリアルに、そしてより根底的な理解として、「この程度」でしかないということが文字通りリアルにみえてきて、「この程度の人物、そして運動」を「左翼」とか「インテリ」とか呼ばない、呼ぶべきではない……ということが、より「体感」する中でみえてきた思いがする。そして、だから絶望したりあきらめたりするのではなく、そうした現実を現実として真正面から受けとめ、もう一度捉え直し、考えを一層深める中からしか、そうした現実の中から出発する以外にどんな「名案」もあり得ないだろう……というようなことがみえてきた。そうした思いを抱き、より新しいものを希求することは、すでに古びて久しい「新左翼」への「不毛なノスタルジア」を信じているよりは、はるかに難しくまたわからないことだらけの道ではある。
 だが、だからこそ、もっともっと学ばねばという意欲も湧くのであり、「知合行一」の精神として、もっともっと行動において語るべきであり、行動を通じてまた学びを深めるべきであるという「弁証法」の立場に、もっともっと立つべきであると、自分自身に迫る自分自身がいる。そんな風に考えてくると、学ぶということは本来どういうことなのか、生きるということは本来どういうことなのか、といったことが改めてその根底から問い、問われ、その中にいる自分という「小さな歴史的存在」に気づく。「知らない」ということを知らないとし、「わからない」ということをわからないとして出発し、その根底へ降りてゆこうとする努力。それは簡単なようで中々難しい芸当である。
 私たちは、好むと好まざるとにおいてブルジョア社会のブルジョア的価値観で物事をみたり聞いたり判断したりという、文字通り「ブルジョア的観点」の中で日々暮らし、生き、その社会の中に程度の差こそあれ、染まって生きている。そうした社会の中では、ブルジョア的学問や文化、芸術等のみが「権威主義」的であるばかりではなく、「革新」とか「左翼」とか「労働運動」とか「インテリ」とかいった「世界」もまた「例外」ではなく、極めて(ブルジョア的な意味で)「権威主義」的であり、今日もまだそうであると言えると私は思う。
 真に学び、そして生きるということは、そうした「権威」と自称する人たちの「奸智」や「嘘」に騙されないだけの真の知性や知恵を身につけるための勉強であり、生き方、闘い方であり、そうした人たちの共働の力でつくる文化でもあるとも言えるだろう。そうすると私たちは「右」の学問、芸術等とはもちろんのこと、一応「左」を自称する側の学問、芸術等をも「全ては、疑い得る」と徹底して疑ってみるくらいのことができなければ本当の物事はみえてこない、というくらいに考え、行動しなければならないと思う。

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