転んでもなお逞しく闘い続ける
原動力は何なのか

福島・宮沢とり

2001年 4月15日
通巻 1074号

 私が(あるいは私たちが)ころんでもぶたれても、なお逞しく生き続け、闘い続けている原動力となったのは、なっているのは何なのか、とフト自問自答します。それは決して自慢するような恰好のいいものでは決してないのです。が、私に私たちに続く人たちに、やはり毅然 として公表する必要があると思います。正直にいって本当に91才の1人暮らしは楽しいものではありません。必ずくるであろう絶対的な死を前にして、革命だの本当にどうだってかまわない、と思っても誰も不思議だとは思わないだろうとさえ、時には思います。
 1953年の朝日新聞の1月3日号(新年号)には、写真と私の書いたものが載りました。8人のうち女では私と神近市子さんの2人、題は国会に何を望むか、私は全国主婦代表 として。そのときは入党して8年目で、党の若い同志たちに混じって、自分はバカなのだ、頭が石ころのように固いから呑み込みが悪くてダメなのだ、だが、中年の女がたった1人でも若い男に混じって党を離れないでいるということだけでも少しは役に立っているかも、くらいに思うことで精一杯でした。
 ちょうどその頃、私のいる部落の中で農民が2派に分かれ、採草地や薪炭林の国による払い下げのための法律 を巡って、ブスブスと青い煙が立ちはじめ、私はその一方の方の農民側にピッタリと寄り添って、その考えの細胞新聞を出しはじめていました。農民たちは私を全く相手にしないのに、私は全くそれにはおかまいなしに、実に彼らの行動やその他をほとんどもれなく細新に書いて発行していました。朝日新聞はその前年1952年に2度投書したのが大変よかったそうで、暮れになって原稿依頼があったのです。流石にうれしくて兄のところへ行って出た話をすると、「それがどうしたのだ 」と大声で叱りとばされてしまいました。義姉は「お前、原稿代だの、写真代だのって金がかかってんでないの 」と。前に出した2通の投書は雑記帳の切れ端にでも書いたのだろうと思います。写真を、という新聞社からの注文で急いで町へ行って写真を1枚とり、原稿紙は5枚買ったことを覚えています。
 そして1月に開かれた地区党大会にできたばかりの細新と、自らの書いたものや写真の載っている朝日新聞を持って意気揚々と出席しました。しかしその日の集まりで、党に対して私は実に大きな一大転換を迫られたのです。山のことを書いた細胞新聞を、地区の委員は大勢の若い同志の前で笑いものにしてしまったのです。その翌年農民は実力闘争に立ち上がるのですが、まだそのときはブスブスいぶっている、という状態でした。
 私は細新を笑いものにされて 幾日も考えたあげく、細新の発行もブル新や赤旗等の投書もすっぽりと止めてしまいました。何故 私は初めて自分がバカでないことが分かったのです(生まれて40年以上もたって!)。呑み込みが悪いのは決して私が悪いのではなく、(学者いわゆるインテリが書いたものが)実に下手なのです。実際の闘いを経て結論を出していないので、つまり食物でいったら生煮えなのです。それと共産党の方針が全く自分と相対立するものであることが分かったのです。党の姿勢と対決し、なお細新聞を出し続けたり、各新への投書等は実際的には両立し得ないのです。党には入っていて党を批判することは出来得ないのです。
 そして1955年に党を出ました。それから 10年かかって1966年に党批判の本を書き、71年細新発行等〜今日に〜。へぇ〜一日も休むことなく?       (要旨)

 

「言わせて聞いて」トップへ戻る

人民新聞社

このページは更新終了しております。最新版は新ページに移動済みです。