南部解放と人民の動向
―敵の敗走と解放、涙の再会

2000年6月10日 日本赤軍・重信房子

2000年 7月25日
通巻 1050号

 イスラエルの一方的撤退宣言に対して、「敵の敗走を早めよう!」と、各地で人民が立ち上がった。イスラエルに南部が占領されて以来22年、数え切れない爆撃と逮捕に、難民としてベイルートやあちこちに避難していた数万の住民が、最後の解放戦を繰り広げる武装勢力の後を追って南へ、南へとマーチを続けた。味方は正義を実現する自信に溢れ、イスラエル兵と共同してきた SLA(南部レバノン軍)は、動揺と混乱が拡大した。いち早くパリに脱出し、「最後まで徹底抗戦」を主張するアントーンラハド SLA司令官への反感も募り、 SLA軍は戦意を喪失してしまった。
 南部地域は各村ごとに、ドルーズの村もあれば、パレスチナ人もおり、キリスト教徒もいれば、イスラム教徒もいる、フランス、イギリスの植民地支配によって国境が引かれる前から住んでいたそうした人々は、この22年、生きていくために、多くがラテンアメリカなどに移住した。また占領下の南部からイスラエル北部に日々国境を越えて出稼ぎに行って生計を立てる人もいた。イスラエルの商品も流通していたし、レバノンの農産物もイスラエルで売られていた。こうした状況を社会経済生活として持ちながら、イスラエル占領下で毅然と闘う人もいれば、密かに闘う人もいたし、服従をしながら時を待っている人も、またイスラエルを同盟者と見なす人もいたし、生活のためにイスラエルに迎合する人もいた。

■次々と潰走するSLA軍

 「SLAのモラルは地に落ちている。祖国に投降するか、イスラエルに逃れるか、どちらかしかない。 SLA軍はもはや存続し得ない運命にある」。神の党のナスラッラーが宣言し、イスラエル軍が撤退計画の準備を終わらないうちにシーア派の神の党とアマルの両勢力が共同で武装解放を拡大し戦線がさらに拡大した。
  SLAはキリスト教徒の軍と言われていたが、シーア派イスラム教徒も の30%以上を構成していた。こうしたシーア派系の SLA軍に対し「宗教的良心に立ち戻り、先祖と家族の過去と将来のために抵抗をやめるように」という呼びかけは功を奏し、最初の解放勢力の攻撃に見舞われ、雪崩をうって投降しはじめた。シーア派のこれらの人々はイスラエルに逃れる気はないからだ。
 拡大した戦場に南部住民が戻ってきて「あの村も解放された」「次はこの村」と解放の行動計画をあちこちで村人同士で伝え合う。 SLAは、村人のマーチに圧されて武器を捨てて逃走するか、投降する。人民の力が武装勢力の線を面でカバーしながら次々と村を取り戻していく。10年も、20年も会えなかった両親、兄弟達が再会し涙を流し踊り、そして次の村の解放を目指してどんどん村人の数が膨れ上がっていく。
 イスラエル国境で厳重な検査のために、手に持てるだけの物をもって入国を待つ SLAとその家族の姿が TVで報道されたために、投降者がさらに増えた。レバノンのキリスト教司教も、「祖国を捨てないで罪を償ってレバノン人として生きるよう」呼びかけた。
 こんなふうに住人から住人へと広がった自分の村に帰る戦いによって、村は犠牲者を最小にして解放された。
 レバノンは不思議な国で祖国に住む人数(400万人)より、移民しているレバノン人(1000万人と言われている)の方が多いし、南部解放であちこちから戻って来る人、特にラテンアメリカのレバノン人たちがインフラを含む南部復興に早々と基金を提供し始めている。

■解放と涙の再会

 武装勢力は自己犠牲的に数十年戦いながらも大統領と首相にその解放の主役の位置を与え、控えめな役割を果たそうとした。しかし、神の党の指導者ナスラッラーが南部を訪れたときは、村人がひしめきあい礼を述べ踊ったり大騒ぎは続いたが、概して意識的に神の党は政府を支える役割に徹した。
 占領されていた自分の村を知らない帰ってきた若者たちは、イスラエルの放置した戦車に乗り切れないほど乗って凱旋し、小銃などの武器を集めお祭り騒ぎだ。「挑発をしないこと」とされていたが、たまらずオレンジを投げつけ、イスラエルと隔てる鉄条網をかいくぐって、10メートルほど離れたイスラエル側鉄条網まで神の党の旗を立てに行って楽しんでいたが、頭に来た目の前のイスラエル兵士がとうとう乱射して十数人が早くも負傷し、神の党が駆けつけて人民を説得していた。
 またこれは、1947年に追放されて難民として暮らしていたパレスチナ人にとっても朗報で、被占領地の家族とレバノンに追放された家族の再会という幸運を作り出した。最初、被占領地のパレスチナ家族が国境地帯に来て「○○という人に会えないだろうか」とレバノン住民に伝え、気の良いレバノン人が家族を連れてきて再会が実現されたという。それからは、第三国経由の電話で国境の鉄条網のもっとも接近した地域の位置を知らせあいながら時間を指定して53年ぶりに対面した家族が次々と に映し出された。鉄条網に傷つきながら手を握りしめあい、頬を寄せ合い再会に涙する家族の感動の姿は、パレスチナ人の背負わされた不当な歴史を凝縮している。公正な正義が実現されるまで人々はこれからも戦いつづける意志に溢れている。解放は自己犠牲の労苦を希望に置き換えたのだから。

■中東の新しい時代の到来

 南部解放で沸きたつレバノンに、6月10日、アサド大統領の死去が突然、衝撃的に伝えられた。中東が新しい時代に入っていくことを象徴する出来事として、レバノン人民による南部解放とアサド大統領の死去が20世紀の最後の年に起こっている。シリア大統領の後継者としてすでにレバノンとの交渉を取りしきってきた息子バッシャールは、シリア国民の支持を受けてスムーズに後継問題を進行させるだろう。
 アサド大統領の圧倒的指導力は「中東で毎年クーデターの起こる国」と言われたシリアを安定させ、中東の要の位置を築いてきた。「妥協しない戦略家」として批判勢力も認める中東の指導者として長期政権を築いてきた。イスラエル被占領アラブ全領土の返還を求める一貫したした姿勢を貫き、レバノンに対イスラエル政策における統一した原則を求めて来た。89年の東欧崩壊以降、湾岸戦争を経て、現在に至るまでその姿勢を貫きながら包括的和平を求めつづけた。

■これからの中東和平

 これからの中東和平を巡る動きはどうなっていくのだろうか
 第1に、今後の中東和平の問題。アラブ側もイスラエル労働党政権も和平を戦略として選択した以上、和平を達成するまで紆余曲折を経て進むだろう。今後アラブ側がどう包括的な統一交渉体制を整えられるかが問われてくる。当面、パレスチナ交渉を要としつつ、シリア交渉はゴラン全土返還を求めるシリアバース党の政策は変わらないだろう。
 パレスチナ交渉では本質的な部分(国境、難民の帰還の権利、首都問題)になっていく分、対イスラエル交渉に向けてアラファト派は PLOを復権させつつ挙国一致体制でハマスなどイスラム勢力と対決、妥協しつつ、建国を形として進めるも、イスラエルが譲歩する姿勢を示さないため、実態的な交渉は積み残しながら進まざるを得ないだろう。
 また、シリアとレバノンの対イスラエル交渉は、イスラエル側が「すでにレバノン全土から撤退した」と主張しており(レバノンは、ゴラン高原斜面の農地をレバノン領土として返還未了を主張)、今後、「シリアとレバノンの交渉の性格が変わる」と、分断を画ってくるだろう。
 しかし、難民帰還の問題に示されるように、パレスチナ交渉の枠で語れない問題が、レバノン、シリア、ヨルダンにあり、アラブ側がアサド大統領死後の和平においてどう包括的な連帯を作り出し、対イスラエル交渉を進められるかが、アラブ人民の望む公正な和平の不可欠な要素となってくるだろう。
 第2に、シリアとレバノンの対等な関係の再規定の問題。シリアの強い影響の下でレバノンの政治が営まれてきたが、西側はイスラエルの撤退とシリアの同時撤退を主張してきたし、今後もレバノンへの資本投下を通して分断を画ってくるだろう。
 レバノンにおいては左派勢力が解放を導いたことで、レバノン政府も統一した対イスラエル政策を強化している。政府と神の党を中心にして、(1)イスラエルに拘留されているアラブ政治囚の釈放、(2)67年に占領されたレバノン領土返還まで武装闘争の継続、(3)パレスチナ難民の帰還の権利実現、(4)22年に及ぶ占領と爆撃の損害賠償をイスラエルに対して掲げて、国連の調査団によるイスラエルの撤退照合作業を見守っている。しかし、今後、新しいレバノン、シリア関係が求められるだろう。イスラエルの撤退発表以来、右派はレバノンからのシリア軍の撤退を求める論調と行動を開始している。
 「現政権は比較的進歩的な政治的立場を貫いてきた。こうしたときにこそ、主導的にレバノンとシリアの対等な関係性を再規定し、シリア駐留軍の撤退を含む問題の再設定をすべきだ」、と左派は非公式に主張している。左派自身が解放の勝利を国の再建に根付かせ、シリア軍撤退を射程に入れて人民政策を実行していけば、財政基盤を武器とする右派勢力に対して公正な国づくりと、友好的なシリア関係を作っていけるだろう。事実、神の党が武装解放で果たした人民防衛の徹底した規律性と、政党活動としての丁寧な社会福祉政策は、急速に神の党の支持を拡大させたし、西側のテロリスト攻撃を粉砕してしまった。これからだ!人々は華やいでいる。
 そんな中、岡本同志もみんなの勧めで南部見学を予定し、5月30日は、共に戦ったバーシム奥平とサラーハ安田の墓に献花し、徐々に亡命生活を実感している。

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