神坂直樹氏任官拒否国賠訴訟判決
が指し示す司法制度改革の行方

司法制度改革を司法エリートに委任してはいけない

2000年 7月25日
通巻 1050号

■裁判所が裁判所を裁く=八百長

 「勝たしてくれ、と言っているのではない。ふつうの裁判を行ってほしい」。
 1998年、証人採否をめぐって1年間休止していた裁判が、本人尋問を先に行う異例の事態で再開した時の、原告・神坂直樹氏の発言であった。神坂直樹氏任官拒否国賠訴訟は、5月26日にたった15秒で完全敗訴した。結果として、ふつうの裁判は行われなかった。
 「20世紀最後の最悪の判決」との言葉を漏れ聞くが、神坂裁判の判決が指し示す日本の裁判所と裁判制度とは何であるのか。

 そもそも裁判とは、原告と被告(検察と被告)との間の言い分を裁判所が聞き、その言い分をもとに法律(判例)と慣習に照らして争いごとを納める制度である、と言っていいと思う。そうであるなら、この裁判では原告・神坂氏の任官拒否の立証に対して、一切の反証を行っていない被告・最高裁が勝訴することが何故できたのだろうか。判決文に目を通せば解るのだが、その中で神坂氏の主張について、被告の主張を超越して裁判所自らが反証を逐一行っている。いかに「ふつうの裁判」でなかったがわかる。
 「敵は目の前に座っているのではなくて、左手壇上に座っていることがあらためてよくわかった」と、弁護団から発言があった。そもそもが、裁判所の違法性について裁判所が裁くシステムになっているのだから、八百長どころの話ではない。欧米では、裁判官の独立と市民の司法参加制度によって、この歪みを正しているのかもしれないが、こと日本においては、「裁判官の独立」とは最高裁を中心とする管理統制機構のもとでの「裁判官の独立」であり、これはとりもなおさず良心と内面の公平さを放棄し、お上にへつらう者たちを保護する制度にすぎない。これでは、市民の権利侵害の擁護どころか、「ふつう」の裁判さえ行われ得ないのは当然のことである。


■自らの差別に言い訳する裁判所

 加えて、この判決が巧妙かつ辛辣であったのは、任官決定に関して最高裁の裁量の範囲があり、裁量権の逸脱と濫用、人権の侵害があってはならないことと認めながら、神坂氏にかかわる修習担当官(=裁判官が担当)の行為は裁量と職務規定の範囲内の行為であって、違法ではないと具体的な事例を挙げて裁判所が認定したことにある。すなわち、そもそも裁判官になる者は、「その実質において中立・公正であるのみならず、外見上も中立・公正を害さないように自律、自制すべきこと」、すなわち「公正らしさの外観」といわれるものを有していなければならず、これに適さない者を排除することが司法修習の目的であり、これを神坂氏に対して忠実に履行した担当官は職務上、何ら問題がないと裁判所はみなしている。
 判決理由には、神坂氏が裁判官に適さない理由として、(1)神坂氏は「最高裁」に批判的な発言をした、(2)修習中に西暦で判決を書いた、(3)挑発的に青法協と関わりをもった、(4)父母が箕面忠魂碑訴訟に関係した、ということが具体的に挙げられている。これらのことを言い換えれば、最高裁に気にくわない奴はすべて不適格者だということであるのだから、これはどう言いつくろっても思想信条の自由に反しないと言えるわけがない。
 およそふつうの人権感覚の持ち主であるなら、「○○らしさ」と聞けば、「何か差別があるのではないか」と疑ってかかるだろう。ましてそれに「外観(=装い)」がつくのだから、なおさらである。我々市民が裁判官に期待するのは、その良心であり、内面の公正さであり、権力による市民の権利侵害の擁護であって、「見た目」の公正らしさではない。最高裁によって外観を保持することを強要されることは、社会の諸矛盾・諸問題に対して無関心になり、外観のみを公正に保つ状態に追いやられることになるのではないだろうか。
 市民的権利を擁護できないほど、司法が腐り果てているのなら、市民の手の内に司法制度を掌握し、監督しなければならない。しかし、それは小手先の「法曹一元」ではない。なぜなら、この判決にある「公正らしい外観」を有した者のみ裁判官になれるというのであれば、弁護士から裁判官になれる者が自ずと決まってくる。それは、社会と向き合って市民的権利を擁護する弁護士でないことは、火を見るより明らかである。また、司法試験合格者を水増しすることでもない。そのことを、地裁判決が教えているように思えてならない。

 

【メモ】 神坂直樹氏「裁判官任官拒否国賠訴訟」とは、
 大阪・箕面市の神坂直樹氏は、司法試験に合格後、2年間の司法修習を終了し、裁判官への任官を志望したが、最高裁は1994年4月、理由を開示しないまま任官を拒否。修習中の教官による(1)箕面忠魂碑訴訟の参加、(2)判決修習での西暦使用、(3)検察庁での取調修習の拒否などを理由に再三に渡り任官撤回強要行為を行ったことに対して、思想・信条の差別であるとして1994年7月、最高裁を相手取り任官拒否取消を求める行政訴訟を東京地裁に提訴。一度も公判が行われないまま却下。控訴するも、その後も公判が行われないまま確定。
 さらに、1995年5月、国賠訴訟を大阪地裁に提訴。その後、原告からの最高裁人事局長、同任用課長、当時の研修所教官(いずれも判事)の証人申請をめぐって空転。地裁(第9民事部・佐藤嘉彦判事)は、証人採否保留のまま、通常最後に行われる本人尋問を職権で採用。1997年1月、佐藤判事らの忌避を申立。1997年7月、最高裁で忌避申立は退けられ、約1年間の中断ののち、1998年3月本人尋問で裁判は再開。1999年12月10日結審し、この5月26日に敗訴した。即日抗告。

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