信じあえる、魂が触れあえる

世界の実現を

蓮月

2000年 10月25日
通巻 1058号

 カルト・オカルト(占いも含む)には、男性より女性の方がかかりやすいとされる。が、なぜなのか。
 こんな話がある。「容子」と言う名の私の女友達は、父親が「女の子だから、何事も素直に従順に受け容れるように」と願ってつけたのだが、それに反発した彼女、今や「翔子」と名のっている。このように、親が、社会が、そして宗教が、女に従順さ、受容性を植えつけていく結果、そういった体質になっていくというわけだ。
 ここに、統一協会によって、信仰の名の下に、インチキ募金活動にかりたてられた女性元信者たちが、統一協会を相手に訴えた「控訴人意見陳述書」がある。一部抜粋だが、耳を傾けてほしい。

 (略)私は1年1ヵ月にわたって、難民の子どもたちにミルクを送るためにと募金を集めました。毎月1日だけは3時間、他の日は土日も休むことなく、朝6時から夜10時まで、昼食を食べる15分を除いてずっと1軒でも多く回れるように、玄関から玄関まで走って、お金を集めました。過疎の村で家と家が何キロも離れていても、地図を頼りに休むことなく走っていきました。夜になって真っ暗な山道が怖くてたまらない時も、1人で泣きながら走っていきました。警察署と法律事務所以外は1軒もとばしてはいけないと言われていましたから、暴力団の事務所にもおそるおそる入っていきました。若い女性が1人で尋ねてきたからと、男性から抱きつかれたり、抱き抱えられて奥に連れ込まれそうになった控訴人もいます。平均睡眠時間は3〜4時間でしたから、呼び鈴を押しながら眠ってしまったことも多くありますし、どぶに落ちたこともあります。犬に足をかまれて七針縫った時も、手術が終わってまだ麻酔が覚めていない足を引きずって、出血でどす黒く染まったジーンズのまま、泣きながら募金活動を続けました。運転手の居眠りでワゴン車がガードレールに激突し、額を切って、出血がとまらなくなった時は電話で事故の報告を隊長にし、その指示どおり、警察に知らせることも、救急車を呼ぶこともせず、現金カンパの道具を隠してから山奥の現場までタクシーを呼んで、それから病院に連れていかれました。病院についた時には2枚目のスポーツタオルが血で黒くなっていましたが、交通事故でこれほどの怪我をしながら、警察も呼ばないことや、保険証ももっていないことが怪しまれて、なかなか治療してもらえませんでした。(略)
 裁判所は本当にこういったことが「社会的相当性を逸脱していない」と考えているのでしょうか?1ヵ月に450時間以上働かせても、何の問題もないというのでしょうか?難民のためにと6億円も集めながら、100万円しかそのために使わなくてもいいのでしょうか?
 また原判決では「各段階ごとに宗教的決断をしている」としていますが、ここでやめると家族や先祖が地獄に落ちると言われて、とてもやめることができなかったということを裁判所は宗教的決断というのでしょうか? 私たちが逡巡した期間は統一協会の呪縛と必死に闘った時であり、その挙げ句に次の段階に進んだのは、力尽きて、統一協会に押し切られたからにほかなりません。これを自らの宗教的決断というのは一時代前のセクハラ裁判の判決に等しいものです。
 (略) 宗教とさえ名乗れば、人の青春を踏みにじることが許されるのでしょうか。統一協会によって辱められた私たちの尊厳を、ぜひこの場で回復していただきたいと思います。


 何度読んでも涙なしには読めないのだが、信者の人権を踏みにじり、奴隷にしたてあげ、控訴人たちの正しく青春を奪った統一協会に対して、強く憤りを感じずにはおれない。裁かれるべきは、人の心を支配して止まない破壊的カルトの教祖の方である。
 また、控訴人が最後に述べているように、フェミニズムの視点から言うと、新潟の柏崎の少女監禁事件で少女が恐怖で逃げだせなかったことと、違うようには思えない。ましてや統一協会は世界的規模である。
 「既成の仏教寺院は風景に過ぎなかった」というオウム元信者の言葉を、既成仏教への痛烈な批判としてかみしめ、仏教者としての責任の重さを感じている。
 人と人がだましだまされるのでなく、信じあえる、魂が触れあえる、そんな世界の実現を一人ひとりが願えたら、そして実現可能だと気付いたら、この世はもっと素晴らしいものになるに違いない(「解脱」に至らなくても!)。
 信じあえ、魂が触れあえる瞬間――その快感は、出会った者にしかわからない。その出会いは、やはり日々の地道なとりくみから生まれるものと、私は信じている。

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人民新聞社

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