カルトの定義とだましのテクニック

蓮月

2000年 9月5日
通巻 1053 号

 私がそもそもカルト批判をするのはなぜなのか  それは人間を解放するはずの「宗教」という名で、むしろ自分の頭ではものを考えられない人間をつくっていくからである。
 そこには、性差別のみならず、ありとあらゆる差別が凝縮されている。問題をより明らかにするために、カルトの定義を明示してみよう。 (1)教祖の絶対化、(2)教団批判の禁止、(3)睡眠・食事の制限、(4)高額の寄付、(5)情報の遮断、(6)長時間の労働、(7)教祖のハーレム構造、(8)タテの構造、(9)訴訟の乱発
 このうちのいくつかでも揃えば、もう立派な破壊的カルトだ。このようにして、ミイラ化事件で有名になったライフスペースのように、「今日は何色の口紅をぬったらよろしいでしょうか」と教祖にお伺いをたてなければ何もできない人間にしていく(教祖のクローン化)。
 既成の宗教教団もむろん例外ではない。「霊・水子のたたり」で脅したり、「宗祖」が死んだことになっていないことにするような非科学的宗教教団があるならば(ミイラ化事件を笑えないネ!)、それは決して批判を免れるものではない。
 カルトに限らず、マルチ商法、ネズミ講など、人を承諾させようとする側は、さまざまな法則、テクニックを利用する。
(1)希少性の法則―「めったにないチャンス!」「今が転換期です!」など、希少的価値を強調する。先の松本智津夫の「イニシエーション」という名の強姦のケースなど、「他でもない、あなたをご指名だ」というふうに事実はどうであれ、本人にそう思わせるものだ。
(2)返報性の法則―宗教の勧誘であれセールスであれ、人は断ると、相手に何かすまないという感情をもつ。断ったかわりに、少しはお返ししなきゃ、応じなきゃと思ってしまう。先のケースでも(私の京橋駅での1件でも)、それは同じなのだ。ましてや、自分が絶対だと信じていた「教祖」ならなおのこと。
(3)信頼の法則―人間は基本的に信頼しあって生きている。私の京橋駅でのでき事も、私は相手の言葉を信じようとしたのであって、大半の人間関係はそれでとおっている。それを、「本当だろうか 」と、一から十まで疑っていたら、人間関係は成り立たなくなる。残念なのは、それを逆手にとって悪用するものがいるということだ。
(4)権威の法則―人を動かす際には、必ず権威を利用する。「ダライ・ラマと会談された」だの、「サイババの後継者」だの。マザー・テレサやクリントン大統領と一緒に写した写真をみせるなど、有名人を広告塔に使い、宣伝するのも、この法則に則る。
(5)好意の法則―人は誘いをかけてきた相手に好感を抱くことがある。その法則を利用するのだ。従って、相手に好感を与えるような人物を使わせる。ときには、男性を勧誘するときは美女を使い、女性を勧誘するときは美男を使う。相手をほめちぎる。
(6)一貫性の法則―人は、自分がいったん始めたことは貫きたいと思う心理がある。4泊5日の研修費代を払った後で、「しまったかな」と思っても、そこで思い止まることは難しい。あるいは、「ホテルに来なさい」と言われたときに、不安が脳裏をかすめても、「ハイ」と約束した以上、それをほごにするのは、信頼の法則と相まって、た易くない。
(7)社会的証明の法則―人は、自分の考えや行動に自信がないとき、他の人々にならうものだ。例えば、自分の結婚相手を教祖に決めてもらい、しかも合同で祝福式なんて、異様な光景だが、当の本人は集団心理から、幸福感に酔いしれていく。

 人はなぜ騙されるのか―この原理を知るように、これらの法則に則れば、こん棒をもってしなくても、人はいともた易く動かすことができるのだ。

 

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