『格子なき牢獄』
ブックレット化に寄せて(推薦文)

上坂喜美

2000年 6月25日
通巻 1047号

三里塚闘争に関わりを持った幾千幾万の仲間たちに

 加瀬勉、この名前を抜きにして三里塚、ましてや三里塚闘争について語ることは出来ない。この土地に生まれ住んで空港反対闘争に関わりあった数知れない農民、それは反対闘争の陣営はもとより、闘争に敵対した人達であっても、また心ならずも闘い半ばで土地を手放してこの地を離れた人々であっても、なんらの感慨もなしにこの名前を思い浮かべる人はいないだろう。
 それだけではない、三里塚闘争にはもう1つ大事な主役がいた。現地の農民でなくて支援と呼ばれた人々だ。1960年代から70年80年代にかけて、全国各地からこの闘いに参加した人々の数は数万、数十万を越えるかも知れないが、この人達にとっても、加瀬勉の名前はある種の強烈な感慨なしに思い出すことは出来ないだろう。1978年3月25日、それは空港管制塔が占拠され、三里塚闘争が1つの頂点を迎えた日であったが、この日闘争に参加していた1人の青年東山薫が警察機動隊のガス銃乱射で射殺された。その報が現場に伝わる中で、労働合宿所前の広場に集まった人々に向かって加瀬勉が行った演説、東山の死を伝えて新たな闘いへの決起を訴える、まさに声涙ともに下るばかりの彼の演説、昨日のように様々とそれを思い起こす人は今も多かろう。
 加瀬勉、1960年代半ば、三里塚闘争の前段として隣の富里町が空港予定地とされ反対運動が始まったとき、社会党員であり、日本農民組合の青年対策部長でもあった加瀬さんは、その当初から反対運動の中心に立っていた。予想もせぬ反対運動の盛り上がりに恐れをなした政府は富里町をあきらめて、当時天皇家の御料牧場を中心にして比較的私有地が少ないと見られていた成田市三里塚の地に建設予定地を急遽変更したのであった。こうして30有余年にわたる三里塚闘争が始まることになるわけだが、この変更が決まるやすぐにこの地に住み込んだ加瀬さんは、成田市と芝山町の農民を中心に反対運動を再組織してやはりその中心に立っていた。それ以後30有余年、闘争の重要な局面局面に加瀬さんの姿を見ないことはなかった。
「格子なき牢獄」表紙 闘争が長期持久の局面を迎えた90年代、ただ1人の老母の面倒を見る必要もあって、加瀬さんは芝山町の隣り、多古町の実家に帰って農業に専心していたが、その間も三里塚闘争の行く末について注意を怠ることはなかった。
 そんな加瀬さんがワープロを習いはじめたという話が伝わってきた。もう65歳は過ぎた頃ではないかと思っていたから、やるもんだなとその衰えない闘志とやる気に敬意を抱いたものだった。そして、人民新聞にこの原稿が載りはじめたのである。
 しかしここに加瀬さんが書いていること、この連載には三里塚闘争の話は全然出てこない。そこにあるのは前の戦時中の話、小学生になったばかりの頃に父に連れて行ってもらった東京見物の話であったり、戦中の小学校生活、そして敗戦、それ以後中学校を卒業するまでの間に経験した社会の混乱や学校の先生、村の大人たちの姿がありのままに語られる。私がとくに感銘を深くしたのは、三里塚闘争について一言も語られていないにもかかわらず、これらの物語の中でこそ、実は私たちが三里塚闘争を通してみたあの加瀬さんの確固とした人生観、農民や地域社会に対する洞察力の深さ、闘争への確信、それらすべてが培われてきたのだということであった。
 しかし、ここで語られている戦中戦後の話は生易しいものではない。軍事教練、徴兵検査、召集令状、千人針、白木の箱、非国民、空襲、機銃掃射、往復ビンタ、疎開、復員等々、当時を思い出させる言葉をあげればキリがないけれども、それは当時を生きた日本人全てが経験した地獄でもあった。小学校入学から中学校卒業まで、もっとも感性豊かなその少年時代の経験がここにはありのままに語られている。戦中戦後の経験と言っても、それはそれこそ百人百様と言おうか、社会的な地位や境遇によってそのありようはすべて違っているから、そこには全ての日本人がなどと一般化してしまってはならない内容もたくさん含まれている。とくに満豪開拓団で敗戦を迎え、命からがら逃げ帰ってきた亀太郎おじさんとその家族の話とか、上官の命令に従ったばかりに戦犯として絞首刑になった太一君の父親の話などは、今繁栄の時代に生きている人間が決して忘れてはならない話である。また今重要なことは、これらの経験が当時を生きた日本人すべてが経験した地獄であったとしても、それを知る人、経験した人達、これを語り伝えるべき人達は今次々に鬼籍に入るか、間もなくそれを迎えようとしているということである。加瀬さんが、その敗戦当時僕は小学生だったとして、この手記を残そうとした気持ちが私には分かる気がするのである。
 今国と政治の反動化が言われる時、それは私たち国民1人1人の心の持ちようにこそその根拠を求めるべきではないかと思うのである。本文の中で加瀬さんは自分たちが愛唱した戦時中の軍歌、それを長々と引用している。意識の上では政治や社会の反動化を批判しながら、なおその感性の上で軍国主義の産物である軍歌のメロディを忘れようとしない自身の情緒と感性、そこに加瀬さんは言いようのないいらだたしさを感じているようにさえ思える。この世界と格闘せずしてなんで心底自分が変えられよう、と。
 三里塚闘争が輝かしい結末を迎えられる日、私はもう一度加瀬さんとゆっくりこの国の過去と将来について語り合いたいと思う。それにしても、三里塚闘争に関わりを持った幾千幾万の仲間たちが、自己の戦中戦後に1つの決着をつけようと決意した加瀬さんの気持ちをこの本の中にくみ取って欲しいものだと思います。

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人民新聞社

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