女、宗教者、人間として

蓮月

2000年3月15日
通巻 1038号

 新潟県柏崎市での少女監禁事件は、私たちにさまざまな波紋を投げかけた。
 警察の一連の不祥事とうその上塗りにはほとほとあきれはてるばかりだが、何よりも私を驚かせたのが、保健所職員が女性を連れだそうとした時に女性が言った「ここにいてもいいですか 」という言葉だった。
 わずか9才の時に男性に拉致され、一室に監禁され暴力をふるわれ、脅かし続けられてきた女性が、なぜ逃げなかったか。逃げようと思えば逃げられる状況にあったにもかかわらず、逃げなかったのはなぜか、という問いは、今までにもさまざまなケースで繰り返されてきた。これは正しく、私が自著『パンク坊主宣言』の中で、従軍慰安婦*竭閧語る時に述べた「セーリックマンの理論」というものである。



 部屋の中央に柵をして部屋を2つに分ける。柵は天井近くまであって、向こう側の部屋にはいけないようになっている。その片一方の部屋に犬を1匹入れ、犬のいる側の部屋の床に電気が流れるような設備をしておく。スイッチを入れると、犬は電気ショックを受けて飛び上がってしまう。しかし、いくら逃げても、その床じゅう電気が流れているわけで、犬が電気ショックを回避することは不可能である。そしてある日、突然その柵を取り除き、いつものように犬のいる方の床に電気ショックを流す。あちら側の部屋に逃げれば、向こうの部屋には電気が流れてない。向こうにいけば刺激を回避できるのだが、この犬はもう向こうの部屋に移動しようとはせず、こちらの床にうずくまって受動的に刺激に身をさらし続ける。



 「学習性無力感(絶望感)」(learned helplessness)つまり、避けられない暴力を受け続けていると、動物はあえて外へ逃げようとしなくなる、いわば無気力を学んでしまったということなのだ。
 これについては、『アダルト・チルドレンと家族』(斉藤学著・学陽書房)にも述べられていて、虐待を受けた女性について、「抑うつ、無気力、絶望感といったものが彼女たちの生活全体を支配していて、毎日その日が終わればいいというような心境になっている」と述べている。
 柏崎の監禁されていた女性も、逃げだせば連れ戻されてひどい目にあうという恐怖心と共に、このような無力感に縛られていたのではないだろうか。発見した保健所の職員が、女性の両親に電話をしたところ、留守だったが、それだけで女性は「家はもうないかもしれない」とつぶやいたという。
 それにしても、「沖縄の少女暴行事件」といい、この事件といい、これらの被害者がもし大人の女性であったら、マスコミや世間に同じように扱われ取り上げられただろうか……とついつい疑ってしまう。
 ところで、この1月、「全日本仏教会」は次のような決議を発表した。「高額な『戒名料』が仏教不信を招いている。僧侶が受け取る金品はすべてお布施であり、戒名は売買の対象ではない。今後『戒名料』という表現は用いないことを表明する」。つまり、仏教への人々の信頼感を奪還するために、不当と感じさせない表現に変えるというわけだ。
 さまざまな事件・事故の (心的外傷後ストレス性障害)に、深刻に頭を抱えて悩んでいる世界の一方で、救うはずの宗教者が、「戒名料」という用語が招く仏教不信を心配して一生懸命討論なさっていたとは、お釈迦さまでも御存知あるまいと言いたくなってきた。
 私は、女、宗教者、そして人間として、今何が自分にできるのか、考えてやっていきたいと願っている。

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人民新聞社

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