カルトにおける性差別

蓮月

2000年 5月15日
通巻 1043 号

 人はなぜ騙されるのか──安斎育郎さんの著書(朝日新聞社刊)の題名にもあるが、私たち人間の永遠のテーマだ。自分だけは大丈夫、とたかをくくっていてはいけない。そういう人こそ危ない、というのが大方の専門家の意見である。
 実は私も20才頃、「障害」にかこつけた男性に騙されそうになったことがあった。JR京橋での出来事である。降りてきたその男性は、ほとんど聞き取れないほどの弱々しい声で、病気なので家まで来て世話をして欲しいと私に言ったのだ。
 今考えればもちろん、おかしな話だ。だが、その頃のナイーヴ(純粋だが世間知らずという意味。「繊細」と言いたければ、「センサティヴ」と言おう)な私は、必死でその男の「訴え」を聞こうとしていたのだった。わずかな言葉の断片をつなぎ合わせ、思いを巡らし、ああ、この人は人の手を借りなければならないほど大変な状況にあるのかもしれない、と。だけどその一方で、もしこの人が私を騙そうと思っているのだったら……と。私の心の中で激しい葛藤があった。どうしたらいいのか。周りの乗降客も、誰も気にとめてくれる様子もない。
 「悪いですけど……」。苦悶の末、やっと出てきた言葉だった。そうですか、とその男は、まるで何事もなかったように背を向けて、さっさと立ち去っていった。その後ろ姿に、私はやっと「あっ、嘘やったんや!」と気がついた。断った時点でも、まだ迷っていたというわけだ。
 もちろん騙す人間よりは、騙される人間でありたいと思う。でも、騙す人間を許すこととは別だ。今日今この瞬間にも、どこかで被害者が出ているのだから。
 ここではひとまず、ハーレム構造つまり酒池肉林、やりたい放題のカルトの教祖に焦点をあてて考えてみたい。
 オウム真理教の教祖を名乗っていた松本智津夫はどうか。江川紹子さんの「救世主の野望」(教育資料出版会)によると、「タントラ・イニシエーション」の名目で、女性信者にセックスの強要があったという。
 「ある大師から先生(麻原氏)が泊まっているホテルへ行くようにいわれました。行ってみると、先生はツインルームのベッドの上に座っていました。『なんでしょうか』と聞いたら、横の椅子に座らせられて、『男性経験はあるか』とか『今まで何人の男と付き合ったのか』とか、そんな事を聞かれました。『経験はあります』と答えると、『服を脱ぎなさい』と。びっくりして、『全部脱ぐんですか』と聞いたら、『ああ、全部だ』というのです」
 この女性は、儀式をするのに服が邪魔なのかと思ったようだ。だが実際は、「キスされたり、ベタベタ体を触られたり……」というものだった。その後も何度か麻原氏の自室などに呼ばれ、性行為を強いられている。
 子どもならともかくも、大人の女が、いくら教祖といえどもホテルに呼ばれて行くなんて、やはり自分の意志でしたことだろう……?とは、セクハラ事件でよく言われること。だが、世の男のはるか想像以上に、多くの女たちが「ナイーヴ」なのだ。
 それに、このような例が矢野 D 京大教授の研究助手に対するセクハラとどう違うだろうか。
 性暴力に取り組むフェミニストたちが、カルト問題に関わろうとしないことが、私には不思議に思えてならない。
 今後のフェミニズムの行方を思うとき、私は、女性差別問題だけを切り放して考えるのではなく、あらゆる問題の中に女性差別を見い出し、あらゆる問題と切り結んで関わっていくことの必要性を痛感している。

(つづく)

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