セクシュアリティを語る
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蓮 月 |
1999年 5月5日
通巻 1009号
「日常生活で、パートナーを操ろうとして、それに付随する相手との激しい争いにのめりこむと、私たちはしばしばこのうえない興奮を味わう。私たちは不安や恐れ、苦痛を、愛そのものや性的な興奮と混同し、胃がよじれるような感覚を恋≠ニ呼ぶ」(愛しすぎる女たち――癒しの言葉――) (ロビン・ノーウッド著、読売新聞社刊) 愛しすぎる女たち――これに当てはまらない女はいないと言われる。事実、それは流行語にまでなった。そして、私もその1人だった……。 人は、その渦中にあるときは、自分が病んでいることに気づかない。私も、ある女友だちに、「愛しすぎる女たちの典型。相手をコントロールしようとしてるんや」と手厳しく批判されたときはムッとした。でも、1年たち、相手と別れた今、結局私は自分の描いた理想どおりに相手をしたてあげようとしていたんだ、と気がついた。 「依存症を次のように定義してもいいかもしれない。それが自分のためにならないという充分な証拠があるのに、それに熱中することをやめられない状態のことである」。(同著) 自分が病んでいることにハッと気づくのは1回きりではない。もうちょっとがんばってみよう、と何度も揺り戻し≠ェやってくる。じゃあ、どうやって最後のふんぎりがつくのか。それは、依存症について書かれたこのような本をひたすら読むしかない。 前出の同著は、「愛しすぎる女たち」シリーズ4作目。シリーズになるほど、無数の女たちが病んでいく実態がある。カットつきの名言集風で、心の傷の回復を求める女たちに贈られた、日めくりのような365の言葉だ。一句一句、ウンウンとうなずきながら、最後まで引き込まれていく。恋愛は、そして失恋は、このような本に引き合わせてくれた。ただ、唯一残念なことに、信仰の強要が気になる。著者もまた、依存症からの回復を要するひとりであるに違いない。 「それまで他者を変えようとして使っていたエネルギーと努力を、自分自身を変えるために使いたいと思うようになることから、回復ははじまる」。 (同著) 別れは厳しい試練ではあるけれど、同時に、自分にはこんな自由な時間があったんだ、と実感させる。そして、長らく途絶えていた友人との再会、新しい人との出会いは、自分の世界を広げてくれるし、何かにチャレンジしてみようという意欲も湧いてくる。 恋愛は、どんな結果になろうとも、いつも私を育ててくれた。心の余裕ができた今は、ようやく相手をあるがままにみつめられるようになった、と思う。でも、もっともっと年月がたって再会して、お互いが変わったなぁ、と思えたときに、新たな展開もありうるだろう。それまでは、女男を問わず、いろんな人とつきあって、自分をブラッシュアップ! 「いつか誰かとまた恋に落ちても I , ll remember to love You taught me how You are always gonna be the one 」 (宇多田ヒカル「ファースト・ラヴ」) アハ、恋心の機微を16才の女の子にたずねてる!それにしても、人民新聞の男性読者の大半はわかれへんやろな。マッ、いいか。妻か恋人が読んでくれるやろ。 |
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