『五体不満足』に

泣いた?笑った?

蓮月

1999年 7月15日
通巻 1016号

およそこの世には、その内容に見合った評価を受けて話題になっているものと、マスコミがブームをつくりだしているだけのものとある。生まれつき両手両足がない(先天性四肢切断)乙武洋匡(おとたけひろただ)さんの『五体不満足』(講談社)は、完全に前者の方だ。
 ややもすると、社会派の人たちは、宇多田ヒカルやサッチー騒動まで、マスコミが騒いでるとその反対じゃないかと思うきらいがある。事実、障害者の知人に同著のこと、「読む気がせん。障害者でもこんなに頑張ってるって書いてんねやろう」と言われた。いやたしかに、障害者が書いた本といえば、けなげに努力して苦労した、みたいなイメージがあった。私はそれはそれで感動するのだけれど、障害者の中には、アレルギーがあるのかも。まあ、食わずぎらいはやめて読んでみてよ。オトちゃん(と出てくるので、そう呼ばせてもらう)のは、明るくて楽しくってちっとも「カワイソウ」じゃないのだ。

 まず、前書きですでに感動。生まれた赤ちゃんに両手両足がないのをみた医者や看護婦さんはビックリ!母親にどう言って会わせたものかと。1ヵ月後の対面に、母親が「血の気が引いて、その場で卒倒してしまうかもしれないと、空きベッドがひとつ用意されていた」というのだが……。

 「その瞬間」は、意外な形で迎えられた。「かわいい」――母の口をついて出てきた言葉は、そこに居合わせた人々の予期に反するものだった。(略)母が、ボクに対して初めて抱いた感情は、「驚き」「悲しみ」ではなく、「喜び」だった。生後1カ月、ようやくボクは「誕生」した。

 私は決して「親」を美化する気はさらさらないが、こと彼の両親にはウーン、と唸ってしまった。人は、愛されるということがあってこそ、人を愛することができるのだ。両親の深い愛情(でも決して溺愛ではなく「ほどよく」と言ったらいいのか)に恵まれて、彼もめげないどころかチョー明るく!前向きに生きてこれたのだと思う。
 とはいえ、差異を認めずバリアが一杯の、障害者が生きにくいこの日本社会のこと、学校1つとりあげても、入学の壁、体育、運動会や遠足など、さまざまな苦労はあったのだが、そこは先生、級友たちの愛情と工夫で、独特の「オトちゃんルール」を作りだし、学校生活をこの上もなく楽しいものに築きあげてきたようだ。(体育が一番好きだったなんて!)それは、後の同窓会の席上で、1先生の「ヒロがいてくれたおかげで、困ってる子がいたら自然に助け合いのできる、優しいクラスに、すばらしいクラスになったんだ」という言葉にも現れていると思う。
 私は彼に、牧口一二さんを現代っ子にしたようなイメージをもった。あの優しさと明るさと爽やかさとウィットとユーモア!「とにかくボクは超個性的な姿で誕生し、周囲を驚かせた。生まれてきただけでビックリされるなんて、桃太郎とぼくくらいのものだろう」って書けるなんて、ヒロクンくらいのものだろう。
 「週刊文春」4月29日、5月6日合併号には、障害者3人が座談会で、「最近、テレビで彼がアイドルのように扱われているのをみて、違和感を覚える」「『乙武君は生まれつきだから、幻肢痛(存在しない部分に痛みを感じる)がなくていいよね』という人もある」、「家族や周囲の環境がすごく良かったからだと思いますが、誰もが彼と同じ境遇に恵まれているわけではない」、「比較的身体能力が高いために、何でも無理して五体満足の人と同じようにする」とか、福祉でなくて別の分野で活躍して欲しい等と話していた。日本人は、だれかが自己表現をし始めて日の目を見出すと、やたら叩く傾向があるが、それぞれの違いを認めあい、讃えあいたいものだ。

 

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