革命という天命が下る国
革命とは俺の革命だった俺

乱鬼龍

1999年 9月25日
通巻 1022 号

 この間の<新たなる戦前>といった状況を憂える声は充ちている。そして、それらに対する<反対><抗議>等々の行動が続けられてきた。
 選挙闘争も、国政、地方戦共々に闘われてきた。
 しかし、事がここに到っても、なぜ、今だ<反対、抗議運動>であり、<議会制民主主義(選挙闘争)>なのか。なぜ、ズバリ<革命>と<革命運動>という、根本的な問題提起がなされないのか というのが、私の極めて素朴な疑問の1つ。
 中国の古典「孟子」の、人民に革命権があるという有名な主張の一節に「斉(せい)の宣王(せんのう)問いて曰く、・・・臣にして其の君を弑(しい)す、可ならんや。曰く、仁を賊(そこの)う者之を賊(じく)と謂い、義を賊(そこの)う者之を残(ざん)と謂う、残賊(ざんぞく)の人は、之を一夫(いっぷ)と謂う、一夫封(ちゅう)を誅(ちゅう)せるを聞けるも、未(いま)だ(其の)君を弑(しい)せるを聞ざるなり」とあるが、今日の「資本主義社会」や「政治・経済・社会状況」といった全ての事柄は、正に仁を賊い、義を賊う・・・といった残賊の政治であり、その輩どもの悪事のかぎりであると<結論、決断すべき秋>ではないかと私は思う。
 それは何も、「日米新ガイドライン」に象徴されるような次元だけではなく、たとえば「介護保健」に象徴される、安心して老いること、天寿を全うすることすら、極めて困難というこの国の<福祉>。高校中退、登校拒否、学校崩壊に象徴されるような<教育>。
 各地のダムや河口堰反対運動に象徴されるような<治山><治水>。減反、農基法改悪、遺伝子組み換え食品、等々にみる<農>。「ダイオキシン」「環境ホルモン」「ゴミ問題」等々にみる<環境>。「脳死」「臓器移植」「クローン技術」等々にみる<医療>。・・・等々、数えあげればきりがないほどの<世紀末的様相・・・一体、これらの諸矛盾、諸問題を単なる「議会主義」「選挙闘争」「労働、市民運動」・・・といったレベルで本当に解決できるのだろうか。・・・できないとしたならそれは、労働者人民の貴重な闘うエネルギーを、誤った方向、労多くして益少なき道・・・へ自称革新政党をはじめとして運動のリーダー達は、導いてはいないか。
 また、これだけ<亡びへの道>へスピードを速め、加速している状況の中で、果して<その程度の運動>で<間に合うのか>(恐らくとても間に合わないだろう)という思いが私にはある。
 このような事態の中では、公然と「革命」を主張し提起することが、労働者人民にとっての<公益>だと思うのだがどうだろうか。
 <選挙闘争>や<労働、市民運動>の主張や提起はあっても、公然と現時点での日本の革命を主張する主張にほとんど出逢ったことがない。これは、なぜなのか。
 そんなことを言っても現実の諸運動を担いきるだけでも大変なんだ。「革命」「革命」と言ったところで、天から降ってくるわけではないだろう・・・といった声が、どこからか聞こえてきそうだ。
 もちろん、それはそうなのだ。現実の「選挙闘争」や「労働・市民運動」といった全てを無視した<別のところ>に日本の革命が存在するわけではない。だが、同じ「選挙闘争」「労働・市民運動」といったものも日本の革命を、原理・原則として考えて取り組んでいくのか、それともそんなことは考えてもみない<永遠の体制内改良主義>という次元に安住しているのか・・・といったことでは、私はビラ1枚の作り方、撒き方、選挙闘争に望む意気込み、労働・市民運動の本気度、戦闘性・・・といったことにことごとく明らかな違いが出てくると思う。
 また、そうした中で、運動が発展するのか後退するのかという違いも、次第に明らかになってくると思う。(現にそうではないか)
 状況や問題が混迷し、混乱していればいるほど、私たちは日本の革命という<原則>を公然と主張し、考え、行動していこうという<私達の新指針>をこえ、旗色鮮明に大胆に掲げるべき<秋>でははないかと思う。


(1999年8月31日 記)

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