ロシア・ルポ通信 第1回

ロシアにおける
バルカン紛争への反応

はるやままさき

1999年 4月25日
通巻 1008 号

 ベルリンの壁崩壊から10年。市場経済へ移行したロシア経済は、混迷を極め、日々報道される政治の駆け引きは、戦国のような目まぐるしさだ。物不足、高インフレのなかで銀行が潰れているが、ロシアで餓死者が出たという報道はない。報道される政治と経済の混乱のなかで、ロシアの民衆はいかに生き、何を求めているのか?現地ルポを月1回掲載する。今回は、ユーゴ空爆に対するロシア民衆の反応―「イラク、バルカン、その次は?」。ロシアは、アメリカ主体の空爆に民衆を含めて強い危機感を抱いている。


屈辱的なロシアの外交的地位
 NATOによるコソボ攻撃がロシアでの連日放送される中、現在のロシアの国際外交能力およびその方向性というものが、そこから読み取れるようである。冷戦時代のワルシャワ条約機構の解体や、その後の旧社会主義同盟国のNATOおよびEU参加への志向が強まることに非常な懸念を抱いていたロシアにとり、今回のバルカン半島の事態は、自らの国際外交的地位がどの程度のものであるかを実際に知らしめるようなものであり、それがロシア政府の首脳陣にとり屈辱的であったとしか言いようがなかったことは間違いないことであろう。
 たとえ大量の核兵器所有国であったとしても、ロシアの国際的な発言力の低下が、今回のNATO軍の攻撃停止を求めるロシアの立ちまわり、そのものから明らかとなっていたようにも思える。


モスクワ市内の抗議行動
 一般市民の反応もさまざまである。さる3月25日前後から、市民が在モスクワ・アメリカ大使館の前にかけつけ、連日集会を行っている光景がロシアの各報道局により放映されていた。集会は深夜まで続き、2月28日には大使館へ向けての発砲事件まで起こった 。
 私が大使館前に足を運んだのは3月26日の夕刻であったが、約200人近い市民が大使館前の歩道を埋めていた。大使館の扉は固く閉ざされていたが、大使館の正面の外壁はいたるところペンキで汚され、窓ガラスが破られていた。大使館から50メートル手前からすでに、民警の訊問(じんもん)が行われ、私自身その際、パスポートの提示とカバンの中の持ち物検査をされた。すぐ手前にはマイクロバスが止められ、車体にはジリノフスキー率いる自由民主党のポスターが張られていた。
 車内にはまだ20代前半の若者たちが陣取り、あたりを威嚇するように妙に興奮しているようであった。頭を短く刈り込み、皮ジャンを着込んだ多くの若者がすべてネオナチグループに属しているわけではないであろう。しかし、平日であるにもかかわらず、こうした若者たちが半ば日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように、大使館前に据えられた仮設の演説台の上でアメリカ批判、NATO批判の声を張り上げていた。
 前方にはさまざまなグループの旗がひらめいていた。日頃はフリガン(民族主義的傾向をもつ青年政治結社ナツィヤ)などが外国人に対して、とりわけ黒人や黄色人種に対しての暴行が頻発するモスクワであるが、今回ばかりは批判の矛先が完全にアメリカへ向いているためか、アジア人とすぐにわかる私が集会の方へ近づいても、私に関心をもつものはいなかった。
 大使館前の大通り前にある島式のバス停留所まで地下歩道を通り抜け、そこから集会の様子をうかがうことができた。もちろんその場所にも、群衆が集会の模様をとおまきに眺めており、そこにいた比較的冷静そうな30代前半の男性にいろいろと話しかけてみた。
私▼ 「今回のNATOの爆撃についてどう思う」
男▽「論外だ。セルビア人は、兄弟だ」
私▼「どうして?ロシア人とセルビア人は違うでしょう」
男▽「いや、同じスラブ人だから」
私▼「ところで、大使館の前にいる若者は党員か」
男▽「コムニスト、ナショナリスト、キリスト教的団体、その他諸々」
私▼「写真とってもいいかな」
男▽「構わないよ。……ところでお前はどこからきた」

 こう尋ねられて、少し答えに窮した。
私▼「……日本」
男▽「日本は、今回もアメリカ側なのか」
私▼「さあ、知らない」

 こんなやり取りをしながらそこらをうろついていると、70代ぐらいのおばあさんが、手に自分で書いたアメリカへの抗議文のポスターを両手にしながら、すたこらと道に出ていこうとする。慌てて警官が止めようとするが、えらい剣幕で叱り飛ばした。私が「写真をとらしてくれ」と頼むと、
「お前の国と何の関係があるんだい。わたしゃ、お前の相手をしている暇などないんだよ」

と捨てぜりふを残して立ち去ってしまった。
 また、大使館前は大通りでかなり交通量の多いモスクワの中心地だが、大使館前を通る車が、集会に参加する意思とアメリカへの抗議の意味を込めてクラクションを叩き鳴らしていた。その騒々しいこと、とどまることなしであった。
 この騒ぎも28日の朝方に大使館前にジープで乗りつけた覆面2人組による大使館に向けての発砲騒動で、一時的に解散させられたが、その後再び抗議活動は継続されていったようである。ロシアの新聞各紙においても、意図的に大使館前の写真を表紙に使うものが多く見られた。



イラク、バルカン、その次は?
 今回のNATOのコソボ攻撃が、「第3次世界大戦の始まり」だとか、「ノストラダムスの予言の前ぶれ」だとか、冗談めいて語る人々がいるかと思えば、今回の事態をロシアそのものへのNATOの攻撃の可能性を明るみにしたと、危機感を募らせる市民もいた。
 「イラク、バルカン、そして次は?」という集会で見たプラカードは、非常に印象的であった。それは、このプラカードの意味するところが、極東有事を控えてという名目で行われている、日本の有事立法・日米ガイドラインの国会審議経過に照らして、非常に生々しいもののように感じとられたからかもしれない。しかし、今回のNATOが目指す人権救済のための戦争とは、いったいどのような結末を迎えるというのであろうか。
 ロシアにとり、今度ばかりはアメリカへの決別が進行していくのではないだろうか。現に最近のことであるが、雑誌『アガニョーク』には「グッバイ・アメリカ」という論文記事がのせられ、その後多くの読者からの意見が寄せられた。しかしながら、現実にはアメリカなしでは現在の経済生活が成り立たないほど、ロシアはアメリカに依存しつつある。それにもかかわらず、固有の道程が求められているのかも知れない。
 文化問題においても、ペレストロイカ以降、西側からの文化が閉鎖社会に一気に流れ込んできたことへの反省とでもいおうか、旧世代とは異なり、比較的文化的順応性が高い若年層においても、最近では「コカコーラもドラックもすべて悪いものは西からきたのだ」というセリフをよく耳にする。もちろん彼らにしてみれば、日本もその西側の一員であることにはかわりないのであろう。
 日本へ帰国してからすぐに、NATOによる中国大使館の誤爆で、中国全土に大規模な抗議運動が起こり始めた。テレビの映像をみながら、これでロシアと中国との絆がますます強まり、国際政治環境において東西冷戦構造並みの国際的緊張関係がぶり返してくるのではないかと、ふと思ったりした。
 NATOによる誤爆か、意図的なものか。それはどうせうやむやにされてしまうのだろうが、日本の東アジアにおける外交にも、当然なんらかの影響を与えるものと考えられる。「イラク、バルカン、そして次は?」というこのプラカードの言葉を、日本に住む我々も再度、真剣に考えなければならない時期にきていることを忘れてはならない。

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人民新聞社

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