1015号乱鬼龍氏の人柄の窺える「川柳時評」に触発された。氏の指摘は、その前号「言わせて聞いて」欄大阪カン…生の「街に満ち満ちている人々の怒りの声やうめき声が、君たちには聞こえぬのか」という怒り焦燥にも、その次号蓮月氏の「日本人は、だれかが自己表現をし始めて日の目を見出すと、やたら叩く傾向があるが、それぞれの違いを認めあい、讃えあいたいものだ」という苦言にも通底するという感懐を持った。若人と接することの多い現場で長年過ごしてきた私の愚見を述べたい誘惑に駆られた。
最近ふと目に留まったことが2つある。1つは詩人佐々木幹郎が「奇妙な果実」という詩で、
「一篇の詩は妻か愛人か同居人か友人か知人か…/本当に詩は一瞬の快楽にすぎないのか―わたしのためだけの樹木のそよぎに詩らしきものは揺らぎつづけて」
と、言葉と詩の黄昏と不安と憂愁を詠っている。
今1つは、故あってその軌跡を見つめてきた、明治末から戦前の近代文学に焦点を絞って四半世紀にわたり地道な仕事を続け、孤高の時間を生きてきた堀切直人が、近著『読書の死と再生』において、80年代以降のテクノ・ミリタリー・システムの圧倒的趨勢と、80年代レーガノミクスのバックラッシュによる70年代草の根運動の圧倒的後退に、頓に深刻な危機感を募らせていることであった。
片や詩人、片や近代文学研究者である。夫々が、夫々の分野の固有の問題から、情況に根ざす「主体の動揺」(前者は言葉と人間の関係において、後者は人類絶滅というリアルな終末意識において)を率直に表明するに至っている。まさに、乱…氏の「『戦後民主主義』『革新政党』『労働運動』『市民運動』といった<主体の側>の金属疲労であり崩落」と軌を一にしている。
ある作家と「なぜ左翼はあれだけ人の非難と嘲笑が好きなのか」という話をしたことがある。左翼が並み以上に実生活で倫理性が高いとは思えないが、人の非難となるや、やたら「倫理」好きで、勢い昂じて週刊誌・ワイドショー・ネタにまで落ちるのは常である。挙げ句は、聞く側には非難か嫉みか分からなくなる体である。その場の結論は、1つは「左翼は己を見つめるのが極端に下手だ」という話に落着したように記憶する。人の非難嘲笑には同意仲間が必要である。左翼は徒党をなさねば心安らかではないのである。そういう徒党性が自己を見詰めにくい環境を固定する事は理の必然である。
社会の現況がもう戦争なのだ
10代後半の若者との長年の接触で実感したことは、80年代半ばから彼らの性向に顕著な変化が現れたことであった。1つは、プロセスを問題にせず結果だけを見つめる姿勢であった。それは、人(特に親)の評価においては異常な地位・肩書き・資産への拘りであり、自己評価に関しては比較的恬淡に勝者敗者を割り切る性癖だった。次に対人関係の要領であった。狡猾さと人を傷つけたくない優しさが混在していた。だが当人たちの内面はどうか?物質的恩恵を享受しはしゃいでいる陰で、恐ろしいほど孤独に震え、強い大人への不信感に喘いでいた。今25〜34歳になっている。
今、この世代の死因第1位は自殺である。ちなみに、35〜44と15〜24歳では第2位、自殺者数は昨年戦後最大の3万人を軽く突破した。日に85人近くが自殺している。しかも、若者と働き盛りの人間が、である。これはもう戦争である。社会の現況がもう戦争なのだ。
一方、人口統計では、40代後半以上の人間が国民の過半数を占めた。この死なない世代(確かに、新聞紙上を賑わすのはこの世代である。理由は単純だ。リストラ・生活不安と動機がマスコミに説明し易いからである)が、今10代の若者に対して「生命の尊さ」を説いているのである。こんな「生命の重み」は何の「重み」もない。カン…生の言を借りれば「説教」は「いいかげんにしてくれ」ということになる。
80年代以来の社会経済システムは、生命など「重んじる」風潮ではなかった。建前と本音と現実の三位分裂が如実だった。バブルに呑み込まれた者、巻き添えになった者、第3者然としていた者、すべて同断なのである。それが若人による少子化の原因の背景をなしている。自自公がひた走る〈現実〉主義の〈現実〉と、湾岸戦争とコソボ紛争で10代前半の児童が示した軍事介入容認の大人たちとは全く対蹠的な反戦意識の〈現実〉を、対照凝視できない55年体制の崩壊と冷戦体制の崩壊の意味が分からない大人は、一言で言って「鈍感」なのである。
占領期を除き戦後最大の失業に喘ぎ自殺者が後を絶たず青少年の暴力事件と不登校が極点に達した今日、必要なのは「この命なんぼのものゾ」という気概と、五五年体制と冷戦体制に呪縛された貧困な思考法から脱却し、己を初めすべてを洗い直す勇気を持ち、次代を担う若者からの本物の信頼を築くことではないか。
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