東チモール投票を巡る情勢の整理

国際東チモール連盟(IFET-OP) 日本事務局 

1999年9月8日

1999年 9月5日
通巻 1020 号

「内戦などというものは、ここにはない。あるのは、制服を脱いで民兵に偽装した国軍が、罪のない人々を射殺していることだけだ。それが全てだ。」

(安保理チーム・ディリ報告より)

 

国際東チモール連盟(IFET-OP) 日本事務局 1999年9月8日

 国連と国際政治レベルでは、国連軍の派遣をめぐってさまざまな動きがある。一方で、現地の情報はほとんど入らなくなっている。9月16日、東チモール人権センターは、インドネシア軍諜報部が粛正リストを持っていることを確認したという。この粛正リストで標的になったのは、東チモールNGOの活動家・教会の指導者・CNRTのメンバー・外国人など。インドネシア軍による計画的で無差別な虐殺と破壊が続いている。
 この報告は、投票をめぐる情況についてのIFETの見解を、IFETが収集した現地の情況や事件の例とともに整理した者である。(IFETの報告書は、日本語でhttp://www.asahi-net.or,jp/~gc9n-tkhs/から、英語のものは全てにつきhttp://www.etan.org/ifet/から入手可能)

 

(1) 投票まで

 IFET監視員チームは東チモール内各地で、8月14日から始まった政治キャンペーンの監視活動を行った。監視活動から得た情報を総合すると、キャンペーンは公正に平和的に行われたとは言いがたいと結論する。特に、インドネシア当局及び準軍組織による5月5日合意への違反が目立ち、準軍組織による暴力で恐怖が蔓延した結果、「独立派」のCNRTは、多くの地域で事務所を開設できなかったか、開設しても有効なキャンペーンを行うことができなかった。8月26日、27日に起きた準軍組織による暴力は広く報道されたが、他に、IFET―OPは、広い範囲で、「併合派」準軍組織及びインドネシア当局による合意への違反を目撃した。
 インドネシア当局の関与についての例は(4)で述べるとして、他に、インドネシア軍車両が親自治案のステッカーを貼っていること、私服の特殊諜報部隊メンバーと準軍組織のメンバーが各戸を回って併合派ラリーへの参加を半ば強制していること(ボボナロ県カイラコ・8月17日)、独立派ラリーに参加した家族の家が焼かれたこと(スアイそばベコ村・8月20日)、借りていた家を追い出されたり(スアイ・8月23日)といった嫌がらせが行われたことを確認している。
 投票キャンペーン期間中の暴力行為に従事したもので、治安を担当するインドネシア警察によって処罰されたものはほとんどいない。この事実は、さまざまな暴力行為が行われたという事実とともに、インドネシア当局が5月5日合意にしたがって東チモール内の治安を維持する能力あるいは意志がないことを示している。

 

(2) 投票日

 8月30日の投票は、概ね暴力や脅迫を伴わなかった。UNAMET(国連東チモール支援団)の国際派遣職員及び現地職員が、5月5日の合意に従って公正な投票を実施すべく努力し、98%という高い投票率になったことをIFET―OPは高く評価する。東チモールのほとんどの地域で投票は平和的に行われたが、いくつかの場所で暴力的事件が投票過程を阻害した。その1つは、エルメラでのUNAMET現地職員の殺害である。また、親インドネシア民兵の脅迫と暴力によって、7つの投票所が一時閉鎖を余儀なくされた。
 IFET―OPは、投票直後に、投票日が比較的平穏であったのは、その前の週のディリ他の暴力事件(8月26日・27日)に対する国際的な圧力の結果であり、むしろ例外であるとの見解を示したが、その後の経過は、この見解が正しかったことを示している。治安維持を担当するインドネシア当局への圧力が強まったと同時に、準軍組織の暴力が治まったという状況は、インドネシア当局の準軍組織への関与を強く示唆している((4)を参照)。

 

(3) 投票後

 投票後、治安は一気に悪化し、準軍組織の暴力は激化した。エルメラでは8月31日にUNAMETを初めとする多くの人が準軍組織により閉じこめられたが、その中には、IFET―OPチームもいた。マリアナでは準軍組織がすでに20名以上を殺害し、200軒もの家が燃やされた。インドネシア軍及び警察は、これに対し、治安維持に必要な手だてを全く講じなかった。
 さらに、これまで外国人職員やオブザーバーの保護に関しては比較的きちんとしていたが、その状況も変化した。9月2日にIFET―OP監視員3名が、ディリのベコラ地区で家が焼かれた件について調査中、準軍組織アイタラクに襲われた。米国籍監視員1名が顔を殴られ、フィンランド国籍監視員1名は背中を殴られ、またもう1人のフィンランド人監視員は銃口を突きつけられた。ジャーナリストの滞在するホテルも襲われ、リキサでは米国籍の国連文民警官が腹部を撃たれた。外国人はごく一部を除いて9月7日までにほぼ撤退した。BBCや日本のメディアもほとんど撤退した他、9月6日には、日本政府もチャーター便を準備した。
 一部に、インドネシア軍と警察は、事態を掌握できなくなっているという説が流れ、インドネシア国軍ウィラント司令官は1400人にのぼるインドネシア軍の増強を行ったが、IFET―OPは、投票前からの状態を考えると、インドネシア当局が事態を掌握できなくなっているという見解には疑問を持っている。むしろ、今回の事態は、インドネシア軍に計画的に主導されたと確信する。いずれにせよ、投票後の状態は、少なくとも、インドネシア当局は5月5日合意に従って東チモール内の治安を維持する能力あるいは意志がないことをさらにはっきりと示している。

 

(4) インドネシア軍と民兵組織

 インドネシア当局に、5月5日合意に従って東チモール内の治安を維持する能力あるいは意志がないことについては既に述べたが、さらに、IFET―OPはインドネシア軍あるいは警察が、準軍組織に関与している場に遭遇・目撃し、あるいは直接の証人にインタビューしている。いくつかの例をあげよう。


・積極的関与
マナトゥトでは、IFET―OPの滞在所の前で、4ウィラント・インドネシア国軍司令官人の準軍組織メンバーとインドネシア軍特殊部隊(Kopassus)のメンバー1人が空に向けて発砲した。
アイナロ県マウビセで、IFET―OPは、インドネシア軍及び警察が、準軍組織マヒディのメンバーと行動をともにしていることを目撃した。さらに、8月20日には、インドネシアの反暴動警察(BRIMOB)が、マウビセの中央市場で、併合派ラリーに参加しようとしている準軍組織メンバーに2丁の銃を渡しているのを目撃した。
8月27日午後、ボボナロ県マリアナ側のメモ村から帰る途中のIFET―OP監視員は、メモ村に向かう準軍組織がインドネシア警察に先導されているのを目撃した。この直後、メモ村は襲われた。
8月31日、オエクシのパンテ・マサカルから撤退中のIFET―OP監視員は、西チモールとの境界で、現地の民兵集団Sakanur(蠍)のTシャツを着た民兵がインドネシア警察及び軍人と一緒にいるのを目撃した。


・消極的関与
8月23日、アイレウ近くのナマレソというところで、IFET―OP監視員と運転手、通訳が準軍組織に車を止められた。警察が到着したが、警官の前で準軍組織のメンバーでありナマレソ村の村長であるDomingo's Amaralは、IFET―OPメンバーを射殺すると脅し続けていた。警官は、準軍組織の武器没収も何もしなかった。
8月27日ロスパロスで、CNRT事務所が破壊された。IFET―OPロスパロスチームは、警察署はCNRT事務所から500mしか離れていないにも関わらず、現場に到着するまでに1時間15分もかかったことを測定した。
など、その他多数。


・その他の情報源より
先週、インドネシア警察職員である東チモール人の家族が、カトリック神父に、警察が次のような命令を与えていると証言した。「民兵に殺させろ。事が終わったら出動しよう。」(Washington Post, Sunday, September 5, 1999; Page B01 front page of 'Outlook')
リキサで撃たれた米国籍の文民警官は、民兵にではなく、インドネシア警察に撃たれたという報告が入った。(The Independent [London] Sunday, September 5, 1999)
ディリのMahkotaホテルで民兵の襲撃が行われたとき、その民兵は、ホテルの回りを取り囲みトラックと針金による道路封鎖を行っていた、武装したインドネシア警察と軍兵士たちの輪を突き抜け侵入してきた。彼は、帰りにただ兵士たちの間を抜けていったが、そのとき兵士は彼の肩を軽く叩いていた。John Aglionbyによる証言。(The Observer/Guardian [UK], Sunday September 5, 1999)
Abel Guterres氏(East Timor Relief Association)は東チモールから帰国後、彼はインドネシア特殊部隊(Kopassus)と準軍組織のリーダーたちの打ち合わせに関する情報を入手し、その中で、軍と警察は準軍組織の暴力を止めずに背景で見ていること、そして、東チモール人の殺害・暴力を行わない準軍組織のメンバーは、自分たち自身が撃たれること、といった点が確認されたという。(ABC 7.30 Report interview transcript, 3 Sep 1999)
Andrew McNaughton博士は、投票後東チモールから強制退去処分を受けたオーストラリア人ジャーナリストの1人であるが、退去処分の理由は全く事実無根とのこと。実際のところ彼は、強制退去がスアイそばのズマライという場所で、ジャワ人の私服軍諜報官と思われる人物が民兵に命令を与えているビデオを彼らが取ったことが理由と考えている。このビデオはシドニーのSBSテレビから入手可能。連絡先は+61-2-9430-3696/3700/2828。


・論理的解釈
 また、これまでの出来事は、インドネシア軍や警察が積極的に計画したものであり関与していると考えると体系的な説明が付けやすい(パースのアブダクション)。
国際的な非難が高まった後、注目を浴びて行われた投票日は、全体が体系的に平静を保ったこと。直前まで「収拾がつかない」状態であり、翌日から「収拾がつかなくな」った民兵というインドネシア当局のシナリオは、この事実とは相性が悪い。
投票前は、外国人は比較的効率的に警察からの保護を得ていた(脅されたことはあっても暴力を受けることはなかった)。一方、投票後は、外国人は単なる脅迫を越えて、直接暴力を受けるようになったが、大事に至る前に救出されるパターンが基本である(米国の文民警官のような例外もあるが)。
インドネシア軍がインドネシアからの移民を連れ出すときに民兵は何もしないが、東チモール人が逃げ出すのは体系的に封鎖するという綺麗な相補的パターンは、計画的分業と考えた方がわかりやすい。
この度のプロセスは、インドネシア当局が関与する範囲では、ほとんどのことが、1975年の再現と考えて予測すると、それに沿って事態が展開してきた。1975年も、インドネシア軍の謀略が東チモール「問題」、「内戦」の主要因であった。すでに多数の証拠があがっているのに加えては蛇足に過ぎないが、以上。

 

(5) まとめと対応

 インドネシア当局は、これまで国連・国際社会に向けて、少なくとも6回にわたり、5月5日の国連合意に基づき、インドネシアが東チモールの治安に責任をもち、維持すると繰り返してきた。いずれの場合も、何ら実効的な手段は取られてこなかった。それどころか、上述のように、現地のインドネシア軍や警察は、治安破壊と暴力に積極的、体系的に関与していたという証拠があり、状況も体系的にそれに従っている。従って、IFET投票監視プロジェクトは、公式に、現地は「混乱状態で収拾不能」なのではなく、意図的に「混乱状態で収拾不能」に見えるべく作り出されたものであると結論する。
 ハビビ大統領やウィラント将軍の統制がどこまで取れているかはわからないが、Kopassus等が関与していることは、軍の上層部が体系的に東チモール内で現在進行しつつある東チモール人の虐殺と破壊を進めていることを示している。そして、そもそも意志がないか能力がないかどちらかの理由で、ハビビ大統領やアラタス外相、ウィラント将軍等の言葉は実効性を全く持たない。軍事非常事態宣言下で、ディリの電話回線は不通になり、外界からのコンタクトを全く絶たれた状況で、東チモール人に対する虐殺が加速する可能性は極めて大きい。1975年の再来である。
 東チモールの「混乱」にはインドネシア当局がかなり高いレベルから関与しているのであるから、逆に、しかるべき政治的・経済的圧力をインドネシア政府にかければ、現地での「混乱」は止めることができる可能性は高い。一方、「インドネシア当局が治安に責任を持つ」と言う前提では事態は悪化する一方である。
 そこで、IFET投票監視プロジェクト日本事務局は、日本政府に対して、インドネシアへのODA援助の即時停止、世銀へのインドネシアへの貸し付け停止を含む実効性のある対策をもって、事態の収拾と投票結果の遵守のために積極的な役割を果たすよう要請する。

併合派民兵より国軍の戦略が心配

シャナナ・グスマン インタビュー
(Far Eastern Economic Review 9月2日発売予定より要約)

シャナナ・グスマン氏


Q.何%の人が現れたら、一応、東チモール人の意見がきちんと反映されていると言えると思うか?
A.70%以上。これはとても重要な質問だ。
Q.現在の緊張を緩和する力を持っているか?
A.「独立派」の人々に平静を呼びかけ、民兵の暴力に暴力で答えないようすることはできるが、現在鍵を握るのはインドネシア国軍だ。国軍と民兵とを分離したい。
Q.インドネシア国軍は投票を操作することを諦めたか?
A.問題は、人々がインドネシア国軍を拒絶することをインドネシア国軍はよく知っていることだ。だから、脅迫を行う。彼らは1968年イリアン・ジャヤで独立派の指導者たちを殺したときと同じことを繰り返せると思っている。我々がこれまで生き延びてきたのは、秘密抵抗組織のおかげだ。
Q.ファリンティルは武装解除を考えるか?インドネシア軍副司令官・ザキアンワーとの対話で何を話したか?
A.私は彼に、ファリンティルが武装解除したら、投票後インドネシア国軍が我々を殺さないと誰が保証できるのか?と言った。
Q.投票後の内戦についてどの程度心配しているか?
A.「併合派」の兄弟たちよりも、インドネシア国軍の戦略を心配している。特に、国境地帯でのインドネシア国軍の動きはとても、とても心配だ。1974年にインドネシアエリート部隊がそこから侵略してきたのだ。問題はウィラント将軍が東チモールの、いわゆる「分離」と言われているものを受け入れるかどうかだ。
Q.併合派民兵については?
A.政治的な解決を目指す。我々は、彼らが脅迫をやめたら彼らは安全だと説明できると思う。彼らは客観的に言って、戦争はできない。防衛手段を持たない人を傷つけることしかできない。我々が彼らを問題の中心と見なしていないのはこのためだ。
Q. 4月のリキサ虐殺も含めて、許せるのか?
A.それは約束で、守る。
Q.独立という結果がでたらどうするか?
A.すでに最初の5年の戦略的開発プログラムは準備している。投票後、併合派のチモール人も招いて、国際社会の前で計画を公表する。ポルトガルは我々を援助してくれることになっているが、多くの国際社会の援助が必要だ。

 

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