【映画評】少女は夜明けに夢をみる

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イスラム教、イランの貧困層に照射

 映画は、少女たちの無邪気な雪合戦で始まる。イランに冬があり、雪景色になるとは驚きであった。灼熱の地だと勝手に思い込んでいた。その無知は季節だけではなく、イランへのさまざまな誤解があったことが映像を追うごとによりはっきりとし、日本との類似性も分かってくる。


 高い塀に囲まれ、銃を持った警備兵が監視する「刑務所」。「罪を犯した」正しくは「犯された」少女たちの厚生施設だ。社会と隔絶された施設は、彼女たちにとっては安息の地でもある。少女たちは憂いを帯びながらも、同じ境遇を持つ故に互いに思いやる。


 この施設の撮影許可を取るのにオスコウイ監督は、7年の交渉を要したという。その交渉と対話のなかで培われた互いの信頼がなければ、このドキュメントを製作することはできなかっただろう。少女たちは、監督のボソボソとした問いに素直に答える。時に涙を浮かべ、怒りをぶちまけながら。監督は、それらすべてを受け入れ映像化することは精神的に無理であった、と語る。想像を超える彼女たちの証言があったのだろう。


 「私の夢は死ぬこと」「なぜ私を生んだのかと母に聞きたい」―この言葉は、レバノン映画「存在のない子供たち」の主人公ゼインが語る「僕を生んだ罪で両親を告発する」に共通する。同じような境遇は、虐待される日本の子どもたちにも通底する。


 「父親からの性虐待」「イスラム祈祷師からの強姦」「家出」「薬」「売春」「盗み」……。イスラム教の厳しい戒律ゆえに、親族からの、ましてや祈祷師からの性的虐待はないものとされ問題にされない。収容されているほとんどの少女が父親や親戚の男たちの性的虐待を受け、売春強要、薬の売人を強いられている。イランは圧倒的な男社会なのだ。


 祈祷師に少女は質問する―「女は男を殺したら死刑になるのに、男は女を殺しても罪にならないのはなぜなの?」。彼女はイスラム教の不条理を公言し、コーランを読むことを拒否する。それ故か未だイラン国内では上映禁止だ。素顔を晒して証言する彼女たちを、この日本で観る私たちとは何か?考えさせられる。


 米国の制裁を受け食糧や医療品の輸入も禁じられている現在のイランは、この映画が撮影された2016年より厳しい社会状況に追い込まれており、ガソリン値上げに怒った数万人のデモも発生し武力鎮圧されている。また、年明けにはトランプがイランの革命防衛隊の司令官を殺害し、情勢は緊迫している。彼女たちが新たな不幸を被らないことを祈る。   (李 末子)

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