【バリアのない街】介護現場へのAI導入 「作業」から「介護」への転換は可能か?遙矢当(はやと)@Hayato_barrier

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  医療福祉現場においてAI(人工知能)活用を掲げる会社(東京・浜松町)を訪れたときのことだ。「現場の声は受け入れられないですねぇ……」―私は重役の一言に落胆した。 高齢者の介護現場において、AIは慢性的な人手不足の解消の切り札になり得ると期待されている。だが、この一言で介護現場へのAIの導入は、やはり難しいのだと実感した。


  特にこの数年、対人におけるAIの精度の向上には目を見張る。 現時点での介護現場におけるAIの問題は、(1)人間による業務との完全な代替は不可能であること、(2)AIに「セクシャリティ」と「性差」機能を設けられないことの2点だろう。

AI導入、見て見ぬふりの介護現場

 介護現場でAIを導入する場合、何を任せ、何を譲らないのか、その業務内容の整理がまだできていないことは、大きな混乱を招く要因になりかねない。


 自民党、安倍政権は、なし崩し的に人材が枯渇する業界にAIを導入させる意向だ。介護現場はもちろん、飲食業や建築現場などの業界でも導入させようとしている。これは、外国人労働者の受け入れが進む業界でもある。AIが実装段階になるまで、外国人労働者でしのごうとしているのだろうか。

 
 ところが、強引に国策として推し進められるAI導入について、AIの「一丁目一番地」とでも言うべき介護現場は見て見ぬふりだ。


 これから介護職員自身がAIに淘汰駆逐されるかもしれないのに、危機感を持ってない。介護職の存在意義が問われようとしているのに、政治家はいまだに現場を理解しないまま議論を進め、介護職の労働組合は、待遇改善の議論ばかり繰り返している。


 「人間中心主義の延長線上でAIを開発しても、汎用型AIという全知全能の機械神にしか行きつかない。これが案外融通がきかず、唯一絶対神の劣化版になる恐れがある」―AIに関して作家の島田雅彦のこの一文に出会った。それは介護業界におけるAIの滑稽な姿そのものに思えた。介護業界は、ミスが起きない、起きたとしてもAIを設定した人間のヒューマンエラーによるミスしか生じない「神」のようなAIを求めるべきなのだろうか。


 AI議論の当初は「介護は人間にしかできないもの」とされてきたが、議論が変わり始めている。人型ロボットPepper(ソフトバンク社)が、医療や介護現場に顔を出すようになると、急速に対人コミュニケーションの実績を積み始め、人とAIの距離を縮めてきているからだ。


 しかし、その人型ロボットのコミュニケーション能力にしても、現状では人間と対峙したときに、予測による最適なコミュニケーションを提示するのが精一杯のようだ。そこに「感情」はない。特に「性」に対する感情が生じないので、個々人を尊重できないコミュニケーションが生じかねず、精神的にも体力的にも低下していく高齢者に相応しいのか大いに疑問が残る。

入浴・排泄はAIの「性」を問う

 特に介護の基本となる「三大介護」の内、入浴と排泄の介護は、介護者が性に関わることによって初めて成立する。とてもデリケートであるがゆえに、介護の専門性を要する場面だ。

 
 その意味で、AIは介護現場において、フェミニズム的な論点を踏まえ、「性」というデリケートな問題を解決する必要がある。それはAIに「性」を持たせられないので、介護は単なる作業になりかねないからだ。介護を受ける人の「性」も含めて尊重することで、初めて「作業」が「介護」へと変わる。介護を受ける人自身の社会的な尊厳の確保までAIに求めるのは過度な気がする。


 人間が蔑ろにされていく現代社会において、人々が「最後はロボットが私の世話をするんだから」という諦観を生じさせる社会は、究極の「効率主義」と呼ぶべきでなのだろうか。


 介護業界は、求められる「介護」を守るために、AIに対するこれからの態度が速やかに求められている。

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