正規雇用のレールからはずれると 元に戻れない日本の雇用 大阪市民 S・W 

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ロスジェネ世代の労働と社会の責任(2)

外資系企業で うつ病発症

 私は大学を1997年3月に卒業しました。いわゆる就職氷河期世代です。1995年の晩秋から1996年の夏が就職活動の日々でした。当時はまだインターネットは普及していません。学内の就職部や新聞などで情報を集め、200社以上に手書きの資料請求ハガキを送り、30社以上の会社説明会に参加して、書類選考が通った企業の面接を受けました。1996年の7月に2社から内定をもらい、東京の外資系IT企業に入社することにしました。苦労はしましたが、なんとか新卒で正規雇用の会社員になることはできたのです。  

私が会社員として働き始めたのは「経済の新自由主義」が流行する少し前の1997年4月です。日々の仕事をそこそこ順調にこなしたことで慢心しつつ、同時に担当業務(人事労務の業務)の専門性を高めていかなければ会社員として生き残れないと、焦ってもいました。外資系企業を中心に何度か転職したことで、スキルや経験は積むことはできましたし、収入も上がりました。  

しかし、100%外資のIT企業での業務量とスピードは半端ではなく、毎夜12時過ぎまで残業をし、土日出勤しても終わらないほどでした。完全に過労でした。この企業では中途採用業務を担当していたのですが、毎日50~60名の書類選考、面接日時のセッティングや面接選考、150社以上契約していた人材紹介会社への対応、その他の業務で、すっかり疲弊しきっていました。  

「このままでは精神的におかしくなる」と思って精神科を受診すると、すぐに「うつ病」と診断されました。出社することが怖くて仕方がありませんでした。夜は眠れず、朝は起きられず、食事も満足に摂れません。症状は軽くなっているとはいえ、現在もうつ病とは付き合っています。不眠や薬の副作用での生活のしづらさは続いています。  

親からの圧力と 病気の悪化

東京でうつ病が回復しないこともあり、両親から強く説得され、私は2005年春に大阪へ帰郷しました。帰郷前は「ゆっくり養生すればいい」と言われていましたが、帰ったらすぐに「いつ働くのか」と圧力をかけられる毎日で、うつ病の療養どころではありませんでした。  

そこで私は、当面フルタイムの勤務は難しいと考えて、日雇い派遣会社に登録してアルバイトをしたり、工場や社会福祉法人でパートタイム的な仕事をして過ごしました。病状が落ち着いたら正社員として働こうと考えていたのです。  

しかし、大阪での就職活動は非常に困難でした。私の転職の多さや年齢も原因と考えられますが、まず東京と比較して圧倒的に求人が少ないのです。加えて両親からの過度の干渉がストレスになり、うつ病が悪化して就職活動ができない時期もありました。団塊世代で公務員の父親からは、ひどくなじられました。内定書類一式を見せても、「オマエみたいなヤツにこんなに給料を出す会社があるわけがない」と一方的に言われ、提出書類をそろえられず、せっかく内定した企業を辞退せざるをえなかったこともあります。  

こうした家庭内での問題や病気を抱え、年齢を重ねるうちに、私は「普通」に働けなくなってきました。比較的長く働いた会社でさえ、契約社員や派遣社員という非正規雇用です。長くても1年、短ければ5カ月というところもありました。現在は、仕事をしている間は給与収入、仕事ができない間は生活保護を受給して暮らしています。  

諦められない 正社員雇用

いまも私は正社員を目指して就職活動をしています。契約社員や派遣社員も含めて探していますが、本命は正規雇用社員です。ハローワークや求人サイト、人材紹介会社、役所での就労支援などをフルに使っています。今年だけでも既に200社以上は応募しています。しかし面接に至る企業はごくわずかで、2カ月に1~2社という厳しい現状です。直近5年で正社員として内定に至った企業はありません。一度正規雇用のレールからはずれると、元に戻るのはとても難しいと実感しています。  

「人手不足」と言われますが、それは20~30代の若い年代であって、私のような人数が多い40代の氷河期世代ではありません。  

このような不公平で不公正な雇用状況を是正しない限り、安定した仕事と生活を求める氷河期世代の切実な要望は実現されないと思っています。政府(内閣官房)が中心となり、「就職氷河期世代支援プログラム」が来年度から実施されますが、「絵に描いた餅」になるだろうと醒めた目で見ています。

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