【フランス植民地主義の現在】コミュニスト・オダンの虐殺を認めたマクロン パリ第八大学博士課程在学 須納瀬 淳

アルジェリア解放運動は終わっていない

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 61年、あまりにも長い年月だ。事件から半世紀以上も経った9月13日、仏大統領エマニュエル・マクロンはある歴史的な行動を起こした。

 アルジェリア戦争中であった1957年6月11日、反植民地主義者でありコミュニストの大学助手、モーリス・オダン(当時25歳)がアルジェで仏軍に逮捕され、その後に行方知れずとなる事件があった。これについて、公には移送途中に逃走したとされていたが、マクロンは遺族であるオダン夫人のもとを訪れ、彼が仏軍落下傘部隊によって拷問の末に殺されたという事実を認めたのだ。

 もっとも、すでに14年6月18日、当時の大統領オランドが拘留中の死亡を認め、この逃亡説を退けてはいた。けれどもマクロンの見解はさらにその先へと進んでいる。

 「〔オダンの〕死が、最終的には誰かしらの犯行としても、しかしそれは法的に設けられたシステムによるものである。この〈逮捕=拘留〉は、当時、軍に合法的な形で委ねられた特別権力を利用して行われた」という言葉に見られるように、拷問の国家的責任が明白に確認された。

 フランスにおける植民地主義の歴史認識をめぐる状況の中で、これは確かに「歴史的な」振る舞いだ。その翌日には、彼の行為を、1942年にナチス占領下のフランスで起きたユダヤ人大量検挙・強制収容事件「ヴェル・ディヴ事件」について国家責任を認めた元大統領シラクの95年の見解と比べる意見も見られた。

 もちろん、犠牲者の数では比較にならない。ヴェル・ディヴ事件では13152人のユダヤ人が逮捕された。しかし、オダン事件はアルジェリア戦争における拷問の国家責任を示す事件として象徴的な役割を持っていた。だからこそ、メディアではその歴史的意義が強調されたのである。

 とはいえ、マクロンの見解は、これまで歴史家や関係者たちが資料や証言をかき集めながら明らかにしてきた事実の単なる追認に過ぎないとも言える。国家元首としての彼の行動の重大さは認めつつも、真の功績は、真実を明らかにするために何十年ものあいだ闘ってきた彼らにあるということは、忘れるべきではないだろう。

 とりわけ、この重要な日に人々が思い起こしたのは歴史家ピエール・ヴィダル=ナケ〔2006年没〕であった。彼が書いた『オダン事件』(58年)は、法務省の資料庫にまで依拠してなされた事件についての初の歴史学的仕事であり、また以降の『国家理性』(62年)や『共和国における拷問』(72年)などでも、彼は拷問という国家による非人道的行為を非難し続けた。それらは信頼に足る証言や資料からなされており、したがって証拠は、とうに出揃っていたのだ。

 だからこそ今回の「歴史的」振る舞いに際し、若き大統領の大胆さを称賛して終わりにしてはならない。われわれは、国家がその事実を否認し続けてきた61年という月日の長さが示す、その意味を改めて問わねばならない。

 哲学者のエティエンヌ・バリバールが「アルジェリアが還元不可能な形でフランスに現存しているように、フランスもまたアルジェリアに現存する」と書きながら問題提起をしたように、両国の歴史は、それぞれに同一化は不可能でありながらも、切り離せない形でつながっている。互いに参照し合わない限り、決してそれぞれの歴史を理解することはできないのだ。

 フランスにおけるアルジェリアの歴史、それはあえて精神分析的な比喩を使うなら、国家という主体を形成するにあたって無意識のうちに抑圧されたものと言えるかもしれない。それを否認することによって現代フランスは成立しているが、しかし折に触れて、それは別な形で回帰してくるのである。

極右「国民連合」の起源はアルジェリア人民へのテロ

 その一つのあらわれが、今なお大統領選で決選投票に残るほどにこの国で勢力を保つ極右の存在だ。というのも、極右政党である国民戦線〔現・国民連合〕の起源は仏領アルジェリアにあるからだ。

 党首マリーヌ・ルペンの父であり党創設者ジャン=マリーが、落下傘部隊の一員としてアルジェリア戦争に参加し、さらに彼自身アルジェリア人たちに対して拷問を行っていたのは、よく知られた事実である。それは、本人を含めた複数の証言から明らかにされている。

 のみならず、アルジェリア独立後から30年以上経った98年の時点でなおも、彼は仏領アルジェリアを残すためにテロ行為によって数多の死者を出した非合法武装組織OASの「愛国的な暴力」を擁護する発言をし、議論を起こしている。

 この文脈において、例えばOAS創設メンバーでその後に国民戦線へと加入したジャン=ジャック・スシニ〔2017年没〕などは、象徴的な人物だ。こうした歴史を踏まえつつ、アルジェリア戦争の歴史家バンジャマン・ストラは著書『歴史の転移』(99年)において、国民戦線の思想の原型が、仏領アルジェリア内でのOASたちのイデオロギーの中に見出されること、そして彼ら極右勢力が持つ国民としての純粋性の神話、イスラムとアラブ人への嫌悪も、この歴史から派生していることを指摘している。

続発するテロ行為の根源にある仏でのイスラム・アラブ差別

 さらにこの歴史は、別な形でも回帰する。1995年のハレド・ケルカル、2012年トゥールーズでユダヤ人の子どもたちを含む7名を殺害したモハメド・メラー、2015年シャルリ・エブドの記者たちを殺害したクアシ兄弟…。彼らに共通するのは、全員が60年代にフランスへ移住したアルジェリア人家族の子どもたちということだ。

 62年のエヴィアン協定以降、多数のアルジェリア人が安価な労働力として渡仏した。もちろん、彼らの行動の全てを植民地主義に帰することはできない。しかし、その歴史抜きにそれを理解するのが困難なのも確かだ。 さらに言えば、かつての自分たちの抑圧者たちのために戦後は労働力として尽力した人々が、「郊外」の中で貧困化し、イスラム・アラブ人差別の中で職を見つけるのが困難な彼らの子どもたちが、宗教的に意味付けされたテロ行為のなかに救いを求めるというのは、何重にも悲惨で、皮肉なことではないだろうか。

 要するにこういうことだ。過去の清算という意味だけではない。なぜならモーリス・オダンの背後には、同じアルジェリア解放運動で亡くなった無数の、無名の死者たちがいるのだから。継続し、回帰する植民地主義という意味においても、アルジェリア戦争は全く「終わって」はいないのである。

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