【くりりゅうの哲学ノート】病と暴力を軸に賃労働を捉え直す 在野の哲学者・文筆業 栗田 隆子

「私を手放さない」を原点に 

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 断捨離という言葉が流行って久しいが、もっぱら捨てるに徹している日々。そして私の部屋がぐんぐんきれいになっている。

 同時に社会活動で出会った人間関係の一部に終止符を打ったり、距離を置いたりした結果、みるみる寛解の道を辿っている。

 数年前、喘息と鬱の両方に見舞われた私は、掃除どころかゴミ捨てもままならなくなってしまった。非常に疲れやすくなる、家事などが億劫となる、頭の中に霧が立ち込めたようにぼんやりする(認知症当事者のクリスティーン・ブライデンの手記に「霧」という言葉が出てきて非常に共感した)などなどだ。掃除に勤しんでいると、この10年近くのいろいろが思い起こされる。特に「女性」の労働問題に取り組んできたつもりだがひどく迷走してしまったことなど。私が鬱になった原因の一つは、とりわけこの女性の労働運動のなかの迷走ぶりではないかと推測している。

 そう、この10年まずもって私のやりたいことがますますわからなくなってしまった。働きたいのに働くことから排除される女性の問題(例えばマタニティ・ハラスメントやセクシャル・ハラスメントなど)は、上の世代の女性たちが問題提起してきた。また、配偶者(主に夫)に「養われる」生活を選ぶと今度は「夫の付属物」扱いされ、「家事労働は労働ではないのか?」という問いもまた私より上の世代のフェミニストが問題提起をしてきた。しかし、私自身はそのどちらでもない。マタハラやセクハラは論外だが、女性労働問題に関わる年配の女性たちの多くが持つ「働きたい」という熱意や、やりがいを求める気持ちは、正直ない。そして私は、独身で家事労働やケアの担い手でもない。従来の女性の労働運動や、家事の無償性を告発した女性たちとは違う位相にいるのだ。

 私にとっては、まず私自身がのびのび・のほほんと生きていくことがまず何より大事だった。そしてのびのび・のほほんと生きていくのに大きなファクターとなる賃労働が暴力に満ちていたり、労働することで病気になったり、あるいは労働が「誰が食わせてやってるんだ」という言葉に象徴されるように人に対して偉そうに振る舞わさせたり、それによって働いてない人を卑屈にさせたり、といった仕組みが嫌だった。

 しかし、私の考え方を理解はされても、私が望む労働を社会で実現するための運動は、ものすごい過酷な労働か、さもなければ(無償に近い状態)で「やりがい」「自己犠牲」がベースになってしまっていた。また、ある組織の代表に(うっかり!)なって「女性の貧困問題」「労働問題」を解決しなければと、私自身がまず「私」を後回しにしてしまった。そうこうするうち自分がどこで何をしたいかが霧の中にいるようにぼんやりし、ますます身動きが取れなくなった。関係者に相談をしてもどこかすれ違い、そうして私は鬱となり、仕事はおろか健康すら危うくなってしまった。社会運動において組織を作ることもリーダーシップを取ることも大事なのかもしれない。しかしどうも私にはそのような作業が不向きなようで、何より私は自分の命が何より大事だ…この迷走ぶりは、どこか仕事で過労死に至る道筋に似ていたのかもしれない。

 今後は、病と暴力を軸に賃労働(場合によっては社会運動も射程に入る)を捉え直すことが私のテーマだ。過労死やハラスメント、いじめなど、労働が生み出す暴力をなくしたい。あるいは労働から排除するという暴力もだし、労働によって生み出される病もなくしたい。しかし同時に、労働への強制は論外だが、いわゆる「健康」な人間だけが働くということへの違和感もある。このモデルは格段に「健常者の男性」がモデルだからだ。そして何より、いろいろな人の課題を無理に抱えようとせず、まずもって「私」を手放さないこと。その原点に立ち返っている今日この頃である。

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