【時評短評 私の直言】強制不妊手術 国家賠償請求が始まった

宝塚市議 大島 淡紅子

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8年制定され96年まで続いた優生保護法の非人間性

 1948年に全会一致で制定された旧優生保護法は、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」、「母性の生命健康を保護する」の二つの目的から、不妊手術と人工妊娠中絶を行う条件などを定めました。第3条で定めた「同意が必要な」不妊手術は、本人や配偶者が遺伝性とされた病気・障がいや、ハンセン病、妊娠・出産が母体の健康を損なうおそれがある方が対象です。

 第4条と12条は、「本人同意は不要」の強制不妊手術についてです。第12条は、遺伝性以外の精神障がいや知的障がい者に対し保護者が同意し審査会が決定するもの。第4条は、遺伝性の病気や障がいに対し審査会が決定するものです。障がい者団体や女性団体の粘り強い運動で、優生思想に基づく部分を削除した母体保護法が96年に制定されるまで、旧厚生省の統計によると、強制手術は16475人、病気や障がいが理由の不妊手術全体では実に約2万5千人に及んでいます。

 「強制手術を本人が拒否した場合、強行できるか」という厚生省の照会に、法務府は「基本的人権の制限は認めるが、不良な子孫の出生を防ぐ目的で強行できる」と回答。また、厚生省は都道府県に「やむを得ない限度で身体を拘束したり、麻酔薬を施用したり、騙しても構わない」と通知、手術件数増加の催促もしています。

 それを受けての地域の体制づくり―医療機関や企業の有力者・校長会・PTA・婦人会・新聞社・地方議員など、国を挙げた人権侵害が行われていたのです。手術は1955年がピークで1362件にのぼりましたが、中には違法な子宮摘出や卵巣への放射線照射、強制ではなくてもハンセン病療養所での結婚条件となり、患者が事実上拒否できない状況も多々ありました。

 70年前後からこの法は差別との批判が高まりましたが、結局手術は92年まで続きました。一昨年の相模原での障がい者施設殺傷事件で、犯人の優生思想が注目されましたが、今年1月、宮城県の60代女性が、「手術は違憲」と国家賠償を求め提訴しました。しかし国は、さらなる立法義務はないと請求棄却を求め争う姿勢です。訴訟の動きを受けて、国会では救済法案提出を目標に議連が設立されました。

 

兵庫県「不幸な子どもが生まれない運動」への責任と救済

 私の住む兵庫県では、66年4月~74年3月に県衛生部が中心となり、「不幸な子どもの生まれない運動」を予算をつけて展開し、その施策が全国に波及したという経緯があり、その責任は重大です。にもかかわらず、一昨年発行された「兵庫県立こども病院移転記念誌」には「本邦で初めてのユニークな県民運動」と、活動を称賛する文章が掲載され、市民団体からの抗議でこども病院ホームページから記念誌を削除するという醜態がありました。

 国・県が主導したとはいえ、積極的に動いたのは市町村で、責任は大きいのです。先ほども触れましたが、優生思想は、法改正から20年を経てもなお私たちの意識の中に生き続け、相模原の障がい者施設殺傷事件の犯人を生み出してしまったのです。

 47年に優生保護法の前身となる法案を提出したのは、旧社会党の加藤シヅエ議員らです。これは「産めよ殖やせよ」と女性を苦しめた国民優生法を批判し、戦前にはなかった女性のリプロダクティブヘルス/ライツの考えから提案し、廃案となりました。

 女性の生殖の権利に着目したことは間違っていませんが、翌48年、優生規程を強化した修正案は全会一致で可決されました。もちろん社会党も賛成しているどころか、提案側です。また、62年に社会党宮城県議が手術の強化を求める発言もしています。

 社民党はこれを重く受け止め、謝罪とともに被害者救済に向け全力で取り組む覚悟です。6月議会では、宝塚市のように意見書が提出された議会も多々あると聞いています。国は迅速な救済への対応をするよう願います。

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