ネオリベラリズム終焉は新しい社会体制誕生のきっかけになるだろうか?

クリフ・デュランド(元モーガン州立大学教授。現在はメキシコにある「グローバル・ジャスティス研究所」の研究員) 出典:Truthout, 2018.5.6 翻訳・脇浜義明

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 いわゆる「階級闘争」では我々は負けたと言ってよいだろう。数十年前に資本主義がネオリベラル・グローバリゼーションに入ってから、資本の側が階級闘争を仕掛け、労働者階級は迎合するか沈黙するか自閉するかである。ネオリベラリズムは、もはや資本主義的「搾取」では足りなくなり、形成期の露骨な略奪「原始蓄積」へ逆戻りした感じだ。これに抵抗しているのは組織労働者ではなく、極右、排外的民族主義、宗教的原理主義、そしてかつて組織労働運動から見捨てられていた周辺部大衆や一部の若者である。イタリアで極右・外国人排外主義勢力と貧困・自然破壊・疎外に反発するポピュリズム的運動が連合したのは、まさに象徴的な現象だと思う。既成の保守vs革新図式が崩れた。

 反発や抵抗と同時に新しい社会体制ビジョンを創造しなければならない時代になっていると思われるが、そのためにも、現在のネオリベラリズムを歴史的に位置づけて分析する必要があるだろう。― 脇浜義明

 

 今日、米国はもちろん世界的規模で、人々は多層的に深化する危機の中にいる。議会、大統領府、最高裁判所からメディア、刑事法制、宗教組織、銀行、企業に至るまでの既成機構の正統性が危機状態である。それに併せて人々のこの社会に対する信頼が喪失、向上の機会とか公正性がこの社会では期待できないと感じている。過去40年間にわたって公共の場の議論を支配してきたネオリベラル・イデオロギーは破綻しつつあるが、それに代わる新しいビジョンはまだない。人々は目的や方向もなく、ネオリベラル資本主義とその政治体制から抜け出す術を知らず、ただ危機の荒波の中を漂っているのだ。

 複雑に危機が交錯する中、人々は非常に不安定な時代で暮らしている。古い規範や期待はもはや通用しなくなったので、人々は方向を見失い、その場その場で有り合わせのもので急場を凌ぐしかない。一つだけ確かなのは、そういう不安定で方向がない時代状況が、人々の不安につけ込む扇動勢力を台頭させる温床になっていることだ。古い体制や秩序に代わってどんな新体制や新秩序 ― かりにそういうものが生まれる可能性があるとして ― が生まれるのか、誰にも分からない。まったくの空白期、旧秩序が通用しなくなり、新秩序が生まれていない空白期なのだ。

 お馴染みの物語で始る前世紀(20世紀)の歴史的流れを振り返ってみよう。1920年代のどんちゃん騒ぎの経済は途方もない経済的不平等をもたらした。その狂乱の崩壊の後に1930年代の大恐慌が襲ってきた。働く人々の生活苦から諸々の社会運動、とりわけ労働運動が生まれ、それに尻を叩かれてルーズベルト政権が、資本主義を救うために、修正資本主義政策を採用した。

 経済崩壊とその結果生まれた下からの救済要求圧力のために、上からの受動的革命が必要となり、実行されたのである。政府は、再び株式市場暴落が起きるのを防ぐために証券取引委員会を設置して、資本市場を監督・監視した。さらに市場の浮き沈みから働く人々を保護する措置を講じた ― 連邦政府による失業対策事業、失業保険、農産物価格保証制度、社会福祉プログラム。政府はケインズ主義政策(訳注:財政投融資を誘い水にして人為的に消費需要や投資需要を作り出して経済活動を活性化させ、雇用を創出する政策)を採用して、赤字支出を通じて消費者需要を刺激しようとした。

 しかし、実際に米国資本主義経済に完全雇用をもたらしたのは、第二次世界大戦だった。(訳注:戦争こそが最大の有効需要を作り出すケインズ政策になると同時に、戦後は過剰生産設備から不況になる)戦後も数十年間このケインズ主義的ニューディール政策が継続・拡大し、多くの米国民の生活水準が上昇した。自由民主主義に政治的安定をもたらしたのは、この「アメリカン・ドリーム」の実現であった。それは社会民主主義の時代であった。

 資本主義経済体制枠内で可能な範囲という限界という限界があるが、国民の安寧を重視する社会的積極国家(activist state)が国民大衆の意志表明の道具であったという意味では、これは民主主義であった。しかし、それは勝利であると同時に、最終的には挫折・崩壊するという運命にあった。

 

 グローバル資本主義の形成

 ルーズベルト政権のニューディール政策は歴史に名をとどめているが、むしろ後世に長期的影響を与えたのは、ルーズベルトがグローバル資本主義体制の基礎造りをしたことである。早くも1940年代初期に、米国が大戦後世界で唯一の工業大国になることを予測して、米国が中心になって資本主義を国際的に拡大・再生産する責任を担う計画を練った。ブレトンウッズ体制(訳注:戦後の通貨安定と金ドル本位制と固定為替相場制に基づく、米国中心の通商体制。しかし、1968年に米が金とドルの交換を停止、70年代に主要各国が固定為替相場制を放棄したため、この体制は崩壊した)を確立したのだ ― 世界銀行、国際通貨基金(IMF),後に世界貿易機関(WTO)となるものを、米財務省の保護下に設立した。

 その後いわゆる自由貿易協定が加わって、この体制のもとで多国籍企業が次第に力を強化していった。
 そもそも最初からの目的は、資本主義国家間紛争から二つ世界大戦が生じたことを踏まえ、そういうことを避けるために多国間主義的世界体制を構築することであった。その世界秩序は明確に資本主義体制であって、従ってヨーロッパやヨーロッパの前植民地国で社会主義が発展することを懸命に抑えた。冷戦というのは単にソ連との力比べだけではなかった。それは、後に「第三世界」と呼ばれるようになった国々が経済を社会化して資本主義陣営から逃げ出すのを阻止する闘いであった。これらの新興独立国の「発展・開発」を助ける経済援助は、それらの国々を先進資本主義国の資本主義的付属物にするためであった。当時はこれらの周辺諸国は資本主義的利益にとっては文字通り周辺的なもののように見えていたが(訳注:付属物というより、中心の発展のために必要不可欠な存在だった。これについては、サミール・アミンらの「中心部・周辺部の不均衡発展」理論が有効)、1980年代に入ると、それらの国々は中心部資本主義国の生存にとって欠かすことができないものとなった。

 ルーズベルトは資本主義を救ったにもかかわらず、資本家たちは彼のニューディール政策の社会民主主義を好ましく思っていなかった。特に60年代の社会民主主義政策に危機感をつのらせた。60年代に盛り上がった社会運動の政治的挑戦を経験した資本家たちは、長期的な階級戦争的反撃を仕掛けた。それは1971年のパウエル・メモに典型的に見られた。(訳注:後に最高裁判事となったルイス・パウエルは「米国経済システムが大規模な攻撃を受けている」と憂い、ハイエクやフリードマンの新自由主義思想を援用して、企業が国家をコントロールすべきだとするメモを米国商工会議所に提出した)デーヴィッド・ハーヴェイが自著『新自由主義 ― その歴史的展開と現在』(A Brief History of Neoliberalism)の中で示唆しているように、パウエル・メモは、株式会社資本主義の新しいコモン・センスとしてネオリベラル・イデオロギーを構築する戦略計画であった。しかし、実際に形勢を変えたのはスタグフレーション(訳注:stagnation(経済停滞)とinflation(インフレーション)の合成語で、不況とインフレが同居する状態)と呼ばれた経済危機であった。資本家は利益が上がる間は労働組合と折り合いをつけることができた。労働組合も、労働争議を止めることと引き換えに、生産性上昇がもたらす利益の一部を受け取っていた。しかし、1970年代になると利益幅が減少したので、資本家は労働者の取り分を減らそうとした。労組に対する資本の側からの階級戦争が仕掛けられた。すでにパイの分け前配分で闘争性を失っていた労組の弱体化がもろに明らかになった。賃金上昇が止まり、諸手当が減額された。企業は国家の支援のもとで生産活動を外国へ移し、グローバル南の低賃金を利用して利益幅を維持しようとした。

 1980年代には、後にネオリベラル政策と呼ばれるようになった政策のもとで、グローバリゼーション時代が始まった。自由貿易、公共サービスの民営化、経済活動の規制緩和等によって株式会社資本が支配する市場が最優先されるようになった。ブッシュからクリントン、オバマからトランプへと、共和党・民主党両党がその政策を実行した。社会民主主義に代わってネオリベラリズムが支配的イデオロギーとなった。
 グローバリゼーションとそれに付随する諸結果が資本主義的危機に対する一時凌ぎとなったが、資本主義の基底にある過剰蓄積傾向が産み出す体制的危機はそのまま続いた。過剰蓄積とは、再投資を続けて利益追求し、ついには蓄積した利益を有効に再投資する道が見出せなくなる状態である。生産活動の中で労働が創り出す余剰価値が完成品である製品の販売を通じて具現化したときに、資本の循環が完了する。そしてその利益(余剰価値)は次の利益を求めて再投資される。このように資本は、果てしない価値の蓄積によってしか生き続けるしかないのである。資本主義の体制的問題は、資本が膨大に膨らみすぎて、もはや膨らんで資本を有効に再投資する場がなくなってしまうことだ。グローバル南への資本移動は、低賃金搾取による利益を増大させる有効機会を切り開いたが、それも結局蓄積資本を増やして再び頭打ちとなる。過剰蓄積という根本的危機を悪化させるだけである。現在企業も銀行もだぶついたカネをどうしてよいか困っている。

 ここでもう一つの一時凌ぎが考案された。生産に資本投資する代わりに負債購入という投機に走ったのだ。負債から連続的に上がってくる利子を利益と見做すのだが、そこには新たな価値の創造がない。既存価値から人から人へと移るだけで、生産のような新価値の創造がない。このような形で作り出された資本蓄積は「擬制資本」(fictitious capital)であって、社会的労働の産物としての金銭形態ではない。このような投機が負債の価格を吊り上げ、2008年の世界金融危機に見られたように、ついにポンジ・スキーム(訳注:日本のねずみ講と同じような詐欺の一種の金融ゲーム)が崩壊した。このときに最後の頼みの綱である国家が乗り出し、多額の救援金を公庫から拠出して、金融システムの崩壊を防ぐ。企業がカネを預けている銀行など金融機関は換金流通性を取り戻し、モラルハザードなんかお構いなしに、再びギャンブル投機を続けるのである。

 福祉国家とか「大きい政府」と呼ばれた社会的積極国家の社会民主主義は国民の利益を代表する国家でないことが、以上の歴史的回顧で明らかになったであろう。資本が大衆諸階級に利益の一部を還元できなくなったときに、大衆の反撃から資本を擁護し、資本制社会を存続させるために生まれた国家体制だったのだ。その正体が次第に国民大衆の目にも明らかになり、国家の正統性が崩れ始めた。この国家正統性崩壊は、1970年代に国家が企業のグローバル南への逃亡を奨励した頃が始まった。「国民国家」が、私が「グローバル化国家」(globalized state)と呼ぶものに変形していったのである ― つまり、もはや国民のための国家でなく、多国籍企業資本のための国家となったのである。

 社会民主主義の名のもとに国家が経済をある程度コントロールして国民の生活水準を上昇させていた間は、広範な国民的支持があった。ドイツ人経済社会学者ヴォルフガング・シュトレークが自著『資本主義の終焉 ― 崩れつつある体制に関する論稿』(How Will Capitalism End ? Essays on a Failing System)の中で書いているように、「20年以上にわたって経済成長が維持されたため、経済成長は民主主義国の国民の権利だという一般的認識が国民の間に深く根を下ろした。」この「アメリカン・ドリーム」を壊したのがネオリベラル・グローバリゼーションであった。この国民的「権利」を裏切ったために政界エリートが国民から見放され始めた。これが最もはっきりと表れたのが2016年大統領選挙であった。

 

ネオリベラル政策への倍賭け

(訳注:「倍賭け」とはギャンブルで負けるたびに賭け金を2倍に増やして賭け続けること。最後に勝った時点でプラスになる)

 「頭にきた」選挙民の多くが、マイケル・ムーアの言葉を借りると、政治体制の中に人間火炎瓶を投げ込んだのだ。言うまでもなくドナルド・トランプのことである。大勢の有権者がトランプを「反体制」候補者と見て投票した。トランプを支持したのでなく、既成政治に対する抗議の票であった。政界エリートたちは、民主主義として通っている多頭政治システムの中で、彼らのネオリベラル政策が大衆諸階級を苦しめてきた(収入停滞、脱工業化、工場の外国移転、労組弱体化、社会福祉削減等々)にもかかわらず、選挙操作を通じて長い間ネオリベラル的支配を続けてきた。ウォール街の恩恵を受けている政界エリートに対する怒りが政治的表現をとったのは、2016年選挙においてであった。民主党内ではバーニー・サンダースが、共和党内ではドナルド・トランプが、この民衆の怒りを代表する選挙戦術を採った。民主党では体制派が選挙装置の操作によってサンダースを抑えたが、共和党ではトランプが大統領候補に指名された。そしてトランプ大統領が誕生した。政界エリートはもはや民主主義装置を操作できなかったのだ。大衆は富豪のトランプをエリートと見做さず、ワシントン政治体制に対する「アウトサイダー」と見做したのだった。

 主流メディアお気に入りの学者や評論家は、トランプには政治的統治能力がないと盛んに吹聴したが、彼らは重要な点を見落としていた。トランプは政治的統治をするために選ばれたのではなく、それを破壊するために選ばれたことだ。その点では彼はちゃんと仕事をしている。多頭政治的選挙過程の中で、社会民主主義の名残りを次々と解体、手が付けられないネオリベラリズム暴走を促進する政権を組み立てたのだ。もちろんそれは彼に投票した国民大衆が望んだものではなかった。巧妙なすり替えがあったのだ。(訳注:現在も雇用を作り出すという名目で保護主義「貿易戦争」キャンペーンをはっているが、要するに米国企業の利益増進にすぎない。雇用促進どころか国民の生活苦を招くという研究者たちの分析がある)ネオリベラリズムに怒ってトランプに投票した人々が得たものは、結局ネオリベラリズムであった。トランプ政権は企業利益に害となる規制や政策を次々と破棄していった。各省庁の行政としての使命に反感をもつ人物をその省庁の長官に据えて、行政国家の任務を解体し、資本を社会的責任から解放した。そのうえ、企業と富豪に対する大規模減税を実施、所得や財産の格差がますます大きくなるであろう。当然国民のための行政を行う資金となる歳入減を招き、やがて財源枯渇を理由に所得貝80%に緊縮財政を強いることになるであろう。金持ち減税と一般国民への緊縮財政の結果格差は拡大、消費需要は減退する。資本主義の宿命である過剰蓄積の危機は深化する。

 こういうことが起きるのはすべて国家がなくても市場だけで社会を管理・運営できるというネオリベラル的フィクションから生まれるといってよいだろう。(訳注:実際には、ネオリベラリズムの中でも国家は資本の擁護者として積極的役割を果たしている。ネオリベラリズムというのはその意味でフィクションである)一時的にはこれは資本に巨大な利益をもたらすだろうが、継続性がない。どうやら資本は自滅的なネオリベラル乱痴気パーティに酔っているようだ。資本主義経済の維持には国家という安定装置が必要で、市場には自己調節能力がない。国家による規制や調節がなければ、個々の資本家の貪欲が資本主義体制を蝕むであろう。トランプ政治に個人的に反発する資本家もいるが、一般的には彼らは自分たちの利益を高めてくれるトランプに喜んでいる。

前進

 かつてニューディールが資本主義を救ったように、今回も資本主義救済策が出てくるだろうか。現在では、資本が致命的な過剰蓄積に走る傾向を抑制する力がある国家が存在しないという問題がある。国家の力は多国籍企業に及ばず、多国籍企業には国民に対する民主主義的責任を担う意志は毛頭ない。現存の原始的なグローバル・ガバナンス(国際的な法の支配)諸機構も、実態的には多国籍企業の支配下に組み入れられている。資本主義が断崖に向かって突き進んでいるのに、いかなる世界機構も資本主義体制の舵取りをして破滅から救う力を持たない。その間に多国籍企業が目先の自己利益ばかりを追求している。人々が差し迫った危機の中で叫んでいても、その声に耳を傾ける国際機関も政府もなく、舵取りをする人も組織もないのだ。

 このように、我々の周囲で旧体制が解体しているのだ。それは我々に自立の機会、資本主義に対するオルタナティブを構築する機会を提供している。この自立、新社会構築は、政界エリートに善処を依頼したり、請願したりすることではない。我々自身が人間的必要に応じる新しい制度や機構を創造する大事業に、直接参加することだ。勇気と創造力が必要である。一般的に言えば、この事業は、互いに顔の見える繋がりが隅々まで機能している地方、企業や企業の手先の中央政界エリートの支配が及びにくい地方レベルで実践を始めるのがよいだろう。新しい社会体制は下から、地域や地方から作っていくべきだ。

 我々は依然として資本主義の中にいるが、我々の事業は資本主義を超えるものでなければならない。そのためには、自分たちが望み、本当に必要とする社会 ― 人間的発展を助ける経済、人々を公人として育てる参加型民主主義政治、人間関係を大切にする社会的価値観 ― に関して、ビジョンを持たなくてはならない。そのようなビジョンの中心に位置するのは地域共同自治の場(communal institutions) ― つまり、全員が幸せになれるように共通の人間的発展に資する諸資源を提供する諸機関である。そういうコモンズを通じて人々はバラバラな個人でなく、有用で価値ある公人に育っていくのである。

 現在のような空白期の真ん中で暮らしていると、方向を見失いがちである。かつて確実と思っていたものが足元で崩れ始めているので、我々は自らの意思と力で創造しなければならない。しかし何を創造するのか。青写真はない。青写真も我々が自ら作らなければならない。唯一頼りにできる原則は、人間的価値への信念である。この信念に基づいて新しい社会を建設する ― これが我々の世代が担わなければならない課題だ。

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