ビットコインの本質

情報の中央集権的支配に抗する暗号通貨の存在意義 自由業・プログラマー 金津まさのり

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  郵便や電話のない世界を想像することはむずかしい。携帯電話やインターネットが存在しない世界を想像することも、多くの人々にとってはかなり困難となった。あと数年のうちには、暗号通貨がない世界を想像するのがむずかしくなっているだろう。その理由について述べてみよう。(筆者)

 暗号通貨を使えば、世界中のだれとでもほぼ即時に、安全かつ低コストで送金することができる。匿名化の機能をもつ通貨を利用すれば、送金先や金額を秘匿することもできる(ビットコインに匿名性はないので注意)。取引内容の正当性を担保するのは暗号技術であり、政府や銀行など特定の存在を信頼する必要はない。
 暗号通貨にはまず、これらの実利的な意義がある。こう言い切ると、今年1月のコインチェック事件などを思い起こす人も多いかもしれない。日本の取引所で約580億円相当の通貨が盗難され、大きな話題となった。
 しかし、こうした事件は取引所のセキリュティに起因するもので、暗号通貨固有の問題ではない。他人に預けた時点で、その安全性は預けた先に依存することになる。これは現金と変わりない。取引にあたって他者を信用する必要がない分散型取引所や、暗号鍵の管理を個人が安全に行えるハードウェアウォレットの普及などで、問題は徐々に解決されていくだろう。

監視・検閲が進展

 さて、暗号通貨の理念的な意義についても述べてみたい。それは、情報に関する中央集権的支配に対抗する運動の一側面であるということだ。1990年台中盤からのインターネットの普及は、人々が国境をこえて自由に情報をやりとりすることを人類史上で初めて可能にした。しかし21世紀に入ってからは、その自由は徐々に失われつつある。国家による大量監視・検閲や、巨大企業による寡占、著作権支配、個人情報の収集・商品化など、少数の権力者たちによる管理・支配が進展してきたからだ。
 この状況に対抗する動きは無数にある。1980年代より存在している、ソフトウェアを自由に実行・解析・改変かつ再配布する権利を求め実践する自由ソフトウェア運動の意義はかつてなく高まっているし、監視に対抗し、また監視を無効化する技術を開発する取り組みも数多くある。
 暗号通貨も、広い文脈ではこうした系譜のなかに位置付けることができる。そもそもビットコインは、暗号研究者・活動家のメーリングリストの中で初めて発表された。ソースコードはすべて公開されており、改変・再配布が自由であることから、いくつもの派生通貨・プロジェクトが日々生まれている。それらの開発コミュニティをすこしでも覗けば、いかに単一の権威を信頼することなく合意を形成できるかという問い、またいかに権力を分散しうるかという問い、さらにはどう「公平に」通貨の分配を行うかといった問いが、プログラムやプロトコル(通信手続き)の仕様や実装といったレベルでも、だれがどのように開発に関わるかといった人間のレベルでも、非常に高い熱意を持って語られ、実践が模索されていることにおどろくはずだ。昨今の日本では、「○○円で買ったコインがいくらになった」といったように、投機的な視点で関心を持たれることが多いが、そういった見方はきわめて皮相的なものにすぎない。

投機的視点より通貨の自由が焦点

 一方で、自由を取り戻す、といったときの「自由」とは、両義的でもある。独占・集権化されている体制が実は柔軟性を欠き、脆弱であるということは、支配の側にとっての悩みでもあるのだ。資本も国家も、できるかぎり脱中心化を行い、フレキシブルに、自由自在に支配を行える存在になりたいという欲求を持っている。
 かつてソフトウェアにおける独占・排他性で悪名をはせたマイクロソフトが、いまやオープンソース化にもっとも精力的に取り組んでいる企業のひとつであることは、象徴的である。銀行の国際送金インフラも分散型台帳(ブロックチェーン)に移行していくと目されているし、ベネズエラを筆頭に、ロシア、インド、中国などが独自の暗号通貨の発行を検討しているという噂もたびたび流れている。

国家そのものが仮想

 しかし、支配の側の脱中心化への願望は、存在論的な矛盾をはらむものでもある。日本をはじめとした多くの政府は暗号通貨を「仮想」通貨と呼ぶが、そこにはある種の焦りと危機感が感じ取れないだろうか。それは、法定通貨や、ひいては国家そのものが「仮想」であることが暴露されることへの焦りである。こうした状況のなかで、「自由」がだれのために、どのように実現されていくかは、私たちの前に開かれた問いであるといえるだろう。

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