【パギやん吠える!】弾圧の脅しと分断に屈せずに声を!

暴虐の雲光を覆い、敵の嵐は荒れ狂う… 浪花の歌う巨人・パギやん(趙博)

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なぜ編集長を
保釈しないか

 本紙・山田洋一編集長に対する「詐欺被告事件」について、神戸地裁第1刑事部は昨年12月19日に保釈請求を却下、翌日、高木甫弁護士が準抗告を申し立てたが、これも棄却した。「決定書」に述べられている理由はいたって簡単で、「証拠を隠滅すると疑うに足りる相当な理由がある」からだと主張している。

 この種の「決定と理由」を弄するのが権力側の常套手段であることは言うまでもないが、同刑事部が「本件は、レバノンに亡命している岡本公三(警視庁が殺人罪により国際手配中)を支援するための犯行であり、被告人の背後には、岡本公三を支援するグループが存在している」と断定している点は看過できない。 また「人民新聞社及びその従業員らが、今後、公判における検察官の立証活動に対する妨害を企てている可能性も相当程度認められる」「被告人は、取り調べに対し、本件の逮捕が不当逮捕である旨主張する一方で、事実については黙秘していることから、公判で事実を争うことは明らかである」ということも「保釈却下」の根拠にしているのだが、要するに、警察・検察に抗う者は勾留して当然であるという本音をちらつかせたことにも注目したい。

詐欺罪、いや
「赤軍罪」の復活

 筆者は、共産同赤軍派や日本赤軍の闘争を積極的に支持する者ではないし、むしろ批判的な立場にあることを明言した上で、岡本公三の現在については以下のように理解している。

 彼は、テルアビブ空港乱射事件(1972年)で終身刑が確定した後にイスラエルで服役していた。1985年、イスラエルと「パレスチナ人民解放戦線総司令部派」との捕虜交換によって釈放され、レバノンに逃れた。2000年、テルアビブ事件についての刑事責任を再び問う目的で日本政府が岡本公三の引き渡し要求をした際に、レバノン政府は彼の政治亡命を認めて身柄を保護した。今は、心身に重い疾患(モサドの拷問が原因だと言われている)を抱えながら、ベイルート郊外で生活している。

 岡本はイスラエルで処罰されているのであるから、テルアビブ事件の刑事責任を再度追及しようとするインターポールや日本政府の姿勢は「一事不再理」(註:ある刑事事件の裁判について確定した判決がある場合は、再度実体審理をすることは許さないという刑事訴訟法の原則)の原則に反する、政治的迫害である。

 神戸地裁第1刑事部は「岡本公三を支援するための犯行」と言い、各マスコミ報道でも「岡本公三容疑者」云々という言辞が当たり前のように使われるのだが、政治亡命者の身分と人権は保障されなければならないという国際法の原則を全く無視していると言わざるを得ない。

怯まず進め、我らが友よ
敵の鉄鎖を打ち砕け!

 つまり「岡本公三=赤軍派=過激派=悪者」という主観的大前提があって、それを支援する個人や集団も「赤軍派=過激派=悪者」だと世情に訴えているのだ。かつて「赤軍罪」(赤軍派であること自体が犯罪であると言う意味)と揶揄された大弾圧があったが、今回それが新たな形で復活したと見るべきだろう。

 さらに、暴対法、特定秘密保護法、共謀罪という「道具」を揃えた権力側は、なりふり構わず暴虐の鞭を振るってくるに違いない。詐欺罪というのはあくまで「別件逮捕」の口実であって、山田編集長への弾圧は権力が自らのその意図を表明した「見せしめ」であることは、多言を要さない。

 政治弾圧の目的は、闘う仲間を脅し、分断し、闘志を萎えさせることにある。そして、一定の「社会的合意」を形成しつつ「悪者は成敗されるべきだ」という俗情的了解を背景に、当事者を孤立無縁にさせることで、成功を納める。

 今回、新聞社への弾圧であるにも拘わらず、マスコミや言論関係の労組やジャーナリスト・言論人たちの動きが全くと言っていいほど、ない。集団的自衛権や戦争法にあれだけ反対したにも拘わらず、彼らが沈黙を決め込んでいることは、由々しき事態である。私たちは、孤独な闘いを強いられている。

 しかし、屈するわけにはいかないのだ! 左記のニーメラー牧師の言葉を、胸に刻んでおこう。そして、何度も何度も唱えよう(丸山眞男訳、『現代における人間と政治』所収より)。

ナチが共産主義者を襲つたとき、
自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者で
なかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。
自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として
社会主義者ではなかつた。
そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、
というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、
なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。
そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。
しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

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