【イスラエルに暮らして】ハーン・アル・アフマル集落 ベドウィンの誇り

バルフォア宣言100年 遠ざかるパレスチナの統一

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イスラエル在住 ガリコ美恵子

言いなりにはならない

 「3回目の強制退去は受け入れない、殺されても、もう彼らの言いなりにならない。これが私の決意だ」―こう語るのは、誇り高きベドウィン・ハーン・アル・アフマル集落の代表者アブ・ハミースだ。
 イスラエル政府は、クファル・アドゥミム入植地を拡大させ、ミショー・アドゥミム入植地とひとつづきになるよう、ジャハリーン一族を強制的に追放する方針だ。ヨルダン渓谷のヌエイマに移住せよ、と通達している。ヌエイマには、イ政府がパレスチナの農民から没収した小さな土地があり、そこへ行けというのである。
 一族は弁護士を雇い、追放しないよう裁判に訴えた。しかし、「ジャハリーン一族は、ハーン・アル・アフマルから2018年4月までに退去すること」と政府の決定がだされたため、裁判は打ち切られた。
 灼熱の太陽の下、私は一族を訪問した。気温45度。熱くて甘い紅茶がうまい。集落の代表者アブ・ハミースに話を聞いた。

私の先祖がナカブから追放された後ここに移住したのは、遊牧できる広大な砂漠と南方にも北方にも井戸があったからだ。ところが占領開始後、イ軍が砂漠の山合に軍基地を設け、辺り一面を軍閉鎖地区にして、南方にある井戸に辿り着けなくなった。北方面にあった井戸は、丘の上に入植地ができると蓋がされ、ユダヤ人専用になった。仕方なく今は、イスラエルの水会社から水を買っている。この会社は、パレスチナで地下200m掘って取水した水を私たちに高値で売っている。水不足と遊牧地不足で、28頭いたラクダは全て売りつくした。山羊や羊も1600匹いたが、今は250匹しかいない。それでも私たちは、先祖から受け継いだ遊牧生活を諦めない。

ベドウィン集落へ

 ハーン・アル・アフマルにあるベドウィン集落は、ナカブ砂漠に暮らした遊牧民ジャハリーン一族の末裔だ。人口は約500人。エルサレムから10キロメートル弱しか離れていないが、交通の便が悪いため恐ろしく遠く感じる。
 旧市街前バス停から、まずアザリア行のバスに乗る。分離壁ができる前は、自家用車でアザリアまでシルワン村を突っ切れば5分もかからなかったが、今は壁をぐるりと迂回して検問所を通過せねばならないため30分かかる。道路は、マアレ・アドゥミム入植地行バスも走るため途中までは滑らかだが、入植地を通り越し、パレスチナ人専用道路に入ると、埃だらけのガタガタ道になる。アザリアでエリコ行乗合いタクシーに乗ると、車はもと来た高速1号線に戻り、死海・エリコ方面に向かって猛スピードで走る。こんもりとした山々が連なるユダ砂漠を眺め、ミショー・アドミム入植地の3キロメートル先、ヘブライ語でビニアミンと書かれている看板があるところで降ろしてもらう。バス停も横断歩道もない。そこに彼らの集落はあった。
 病人や怪我人がでた時、一番近い救急病院は東エルサレムにあるが、チェックポイントを通過しなければならないので救急車はなかなか来ないで手遅れになることがある。
 2002年以前、ハーン・アル・アフマルはエルサレム県に属し、そこに住むベドウィンはエルサレム住民権(ブルーID)を所持していた。分離壁が建設されると、アブ・ディス、アザリア、ハーン・アル・アフマルなど、分離壁の西岸地区側になった地域はエルサレムから切り離されて、住民はブルーIDを剥奪され、西岸地区の住民としてグリーンIDを所持するようになった。

2度の強制退去 つぶされるパレスチナ南北幹線道

 彼らは、既に2度の強制退去を経験している。1931年のイギリスの調査によると、ここは27人のベドウィンが暮らす小集落だった。1945年の調査では、ハーン・アル・アフマルのベドウィンは16.38平方キロメートルの土地を所有していたという。彼等はそのうちの約0.5平方キロメートルで農作物を栽培し、広大な砂漠を遊牧し、羊肉や山羊乳を町で売り、豊かな生活を営んでいた。
 ジャハリーン一族は本来、イスラエル南部のナカブ砂漠に暮らしていた。ところが48年、イスラエルが建国されると、ナカブはネゲブと改名され、イスラエル領土になってしまった。イ政府は、ジャハリーン一族の族長に「兵役に参加して、イスラエルに協力するならここに居留まってよい」と条件を出した。しかし族長はこれを拒否したため、52年、イ軍はジャハリーン一族をネゲブから追放した(1度目の追放)。
 一族は、北上して東エルサレムに位置するアザリア周辺に移住した。だが67年、占領を開始したイスラエルは、ジャハリーン一族を追放して、マアレ・アドゥミム入植地(77年完成。人口4万人)を建設した。これが2度目の追放だ。
 一方、アザリア付近に残った親戚もいる。これまで200回もテントを撤去されながらも、今もゴミ集積所の横に居住している。しかしそこも追放の危機にある。
 アザリアから追放された一族は、5キロメートル東にあるハーン・アル・アフマルに落ち着いた。ところが、イ政府は東エルサレムのアナッタ町から土地を没収し、79年、ハーン・アル・アフマルの丘上に、クファル・アドゥミム入植地(79年完成。人口4千人)を建設したのである。入植地との境界線は、すぐ下のワディ(雨が降った時だけ川になる枯れた川)だ。動きの早い山羊は、目を離せばすぐにワディに降りて、草を食む。すると、丘上から入植者が山羊を撃ったり、連れ去ったりする。入植者が夜中に集落に向けて威嚇射撃することもよくあるという。「子どもたちが寝ているのに、なぜ撃ってくるのか?」―集落のリーダーが大声で聞くと、返事はこうだ。

「練習してるのさ」…。

くりかえされる民族大移動と追放

 2009年、イタリアのNGOがこの集落に、タイヤや土など自然の材料を利用して、128名の児童を対照とする小学校を建てた。それまでこのベドウィン集落に学校はなく、子どもたちは5キロメートル離れた村に徒歩で通っていた。しかしイ政府は、無許可建築物であるとして、完成1カ月後に撤去命令を出したが、国連などの国際的批判を恐れてか、今のところ撤去には至っていない。しかし、軍が校内器具を没収したり、入植者が夜中に放火にやってくることが度々ある。
 2015年、パレスチナのNGOがここに太陽熱発電機のソーラーシステムを寄付したが、イ政府はこれも没収した。オランダのNGOが学校に寄付したソーラーシステムは、翌日軍が没収した。ある米国人が子どもたちに寄付したサッカーゴールは、銃を構えてやってきた入植者が奪っていったという。
 こうしたなかでもアブ・ハミースは気丈に語る―「国内外のメディアが私たちの苦難を報道して、EUや国連はイスラエルの方針に反対している。私たちを応援してくれる人々が世界中にいる。政府はヌエイマに移住せよと通達しているが、その土地は人がやっと住むことができるほどの小面積で、遊牧はできない。私たちも動物も、刑務所に入れられるのと同じだ。だから、退去はしない。今まで強制退去に逆らった人々は、軍に撃たれたり捕まったりした。私は強制退去されるくらいなら、ここに座り込む。暴力を受けることは覚悟している」。

 バルフォア宣言(注)から100年が経つ。当時パレスチナを植民地としていたイギリスはパレスチナ人を追放し、世界中のユダヤ人が「誰も住んでいない空地がある」と聞かされて、パレスチナへの大移民が始まった。同じようなことが、今もこの地パレスチナで起きているのだ。
 この瞬間も、東エルサレム北部と東部の入植地地帯をひとつなぎにするE1地区入植地の建設が進んでいる。ここには、パレスチナの北部と南部をつなげる重要な幹線道路がある。近い将来、地区一帯がイスラエル専用地=入植地とされるため、道路は潰される予定だ。
 話を聞いた私は、日陰のない高速道路を3キロメートル歩いて最寄のバス停に行き、いつ来るかわからないアザリア行のバスに乗った。アザリアでエルサレム行きに乗り換え、検問所で一旦バスから下車し、身分証明書の検査を受けて、エルサレム市内に。乗り継ぎのタイミングが良ければ、帰路の所用時間は1時間半。夕方を過ぎると、バスは来ない。
 ハーン・アル・アフマルからベドウィンが追放され、パレスチナの南北幹線道路が潰されれば、事実上パレスチナの統一は不可能となる。

(注)バルフォア宣言
1917年11月2日、「パレスチナの土地にユダヤ人国を建国する」と英国が宣言した。パレスチナ占領の出発点となった宣言。

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