「仲間を見捨てない文化」を

【連載】共謀罪と弾圧・救援運動の経験共有

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(第1回)共謀罪反対の中で、語られていないこと

 編集部 園 良太
 共謀罪の参議院での成立が狙われている。この大きな狙いの一つは、3・11原発事故や一昨年の戦争法反対から立ち上がったさまざまな市民を萎縮させることだろう。共謀罪は不当逮捕=「弾圧」の恐れを広げ、運動に参加しづらくさせる。共謀罪が奨励する「密告」は、運動の根幹である人と人との信頼関係を壊す。
 これは従来からこの社会と運動に広がりつつある傾向で、運動の中で被逮捕者へのバッシングも繰り返されてきた。
 共謀罪成立を阻止する過程で、萎縮をなくし、関係性を維持する具体的対策も必要とされている。それは弾圧の経験と救援活動に凝縮されている。私は東京の社会運動でこの9年間で4回不当逮捕され、弾圧の現場や仲間の救援活動にも多数関わった。そうした経験と、それをめぐる議論を振り返り、共有することで対策に役立てたい。

共謀罪は被逮捕者の切り捨てをさせる

 今号3面で本間龍さんが、メディアが政権に脅されているだけでなく、「権力側から要求されたわけでもないのに『こんなことしては、まずいのではないか』などと勝手に『忖度』し、自主規制をかける雰囲気が蔓延している」と指摘されている。これは、警察の弾圧と社会運動の関係にも当てはまる。60、70年代のような実力闘争がほぼなくなった現代日本では、デモや抗議行動での些細な接触や、活動家の日常生活から弾圧をでっち上げることがほとんどだ。警察に少しでも身体が当たれば「公務執行妨害罪」、役所の中で抗議すれば「威力業務妨害罪」、免許証の住所と住民票の住所がずれていただけで「免状不実記載罪」などで弾圧してくる。
 近年は大飯原発再稼働反対テントの参加者や、沖縄の山城博治さんらが数カ月も前の案件を持ち出されて逮捕され、警察は「現行犯逮捕」の基本原則すら無視している。そして、国会前の歩道などに従来は無かったコーンとポールをずらっと並べて参加者を道路脇に押し込み、警官もずらっと並んで威嚇・規制し、逮捕を引き出す挑発を暗に繰り返す。
 このように、まず確認したいのは、運動の中で誰を・いつ・どのように逮捕するかは警察がほとんど自由に決められること、警察は常に計画していること、弾圧は警察が悪く責任も彼らにあることだ。
 だが、警察側の自由が拡大し続けるため、まず市民に「こんなことしては、まずいのではないか」という先回りの萎縮が広がることになる。主催者や参加者が、権力や警察により強く抗議する参加者に「そんなことしてはまずいぞ」と抑えこむ傾向も強くなる。
 そして、運動の中で警察が弾圧する事実や危険性自体を言わなくなり、逮捕された時に抗議をアナウンスしない、救援は弁護士任せ、ということも増える。最悪の場合、主催者の周辺がネットで「警察に抗議したり、逮捕された方が悪い。自己責任だ」と被逮捕者を攻撃し、孤立させることも何度か行われた。これにより、被逮捕者も救援活動の担い手も疲弊し、拡大した反原発運動や反戦争法運動が縮小・解体することが続いてきた。
 共謀罪のあらゆる中身に運動のこの傾向を助長させる狙いがあることは、言うまでもないだろう。「警察と揉めたらまずい」という自己規制は、「ネットに書く・話し合う・集まるだけでまずい」に深まりかねない(すでに今年から「こんな話し合いも共謀罪扱いだよね」という会話をよく聞く)。それは「お前もまずいぞ、やめろ」と仲間を抑え込むことに伝染しかねない。さらに、萎縮せずに実行した仲間を「あいつが悪い、自己責任」と攻撃することから、「私は違う。それを証明するためにあいつの情報を渡すから、見逃してくれ」という警察への哀願に進みかねない。こうして誰も何もできなくなり、最後の信頼関係も根こそぎ奪われる。全ては、治安維持法下の戦中日本社会で、弾圧されたら拷問される恐怖が生み出し経験したことだ。
 現代は、弾圧時にいきなり拷問されることは少ない。だが、逮捕はされうる事実、その時の対処方法、救援活動で信頼関係を維持できることが運動の中で遠ざけられていたら、萎縮も弾圧も拡大するだろう。誰でも逮捕は怖いし、どうするかも最初は知らない。そこで、次回から、私や仲間の経験を振り返りたい。
(次号に続く)

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