パギやん吠える!

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老人は国会突入を目指す!

 浪花の歌う巨人「パギやん」  趙 博

■藤村直樹をご存じか?

 …ご存じならば、あなたはかなりの音楽通かフォーク愛好家のはずである。しかし敢えて言おう、「藤村直樹を知らないあなたは、その事実を恥じよ」と。
 藤村は、和歌山県立医科大学に入学後「フォークキャンプ」(1967~1968)に参加、そこから生まれた音楽ユニット「フォークキャンパーズ」(中川五郎、長野隆、勝木徹芳、村田真、桝井耕一郎、金延幸子、西岡恭蔵ら)の中心人物だった。第4回「関西フォークキャンプ打ち上げコンサート」(1969年8月17日、京都円山公園野外音楽堂)で歌った『町工場のブルース』が注目を浴びるもプロ歌手にはならず、その後、医学に専念するために故郷・和歌山へと戻った。帰郷後もフォークへの情熱は途切れることなく「和歌山フォーク村」を結成、ラジオやテレビにも出演した。しかし、医学研究と多忙な病院の仕事を優先せざるを得ず、しだいに音楽活動からは遠ざかっていったのである。
 ところが、1999年頃から、藤村はコンサートやCD制作などの活動を再開する。医師の仕事を続けながら「ウイークエンド・シンガー」を自称し、週末や祝日にライブ活動を盛んに行った。
 特筆すべきは、「後期高齢者医療制度」の施行を前にした2006年末から2007年上半期にかけて、小泉改革下での医療・介護の崩壊状況を調査するため、藤村が半年間、医療機関や介護施設を詳しく訪ね歩いたことである。その地道な調査と異議申し立てから、『老人は国会突入を目指す』という楽曲が生まれた。8分9秒のシングルCDを制作して発売記念関西ツアー・ライブを敢行、2008年5月18日に発売を果たしたが、「放送禁止歌」の憂き目に遭った。

■老人同志よ、ともに歌わん!

1・日本中の 村から町から 都会の谷間から 車椅子で 松葉杖で 老人たちは 国会を めざす よたよた よぼよぼ こけつ まろびつ ぜいぜいと 這いずりながら 政府を倒すために
2・その夜中 メールは 日本中をとびかった 老人よ、見捨てられた者たちよ! 国会をめざせ! 政府を倒すために!
3・その2日前 ついに保険料は 年金より高くなった 日本中の 僻地から 郵便も小包もなくなった 病気になっても 医者にかかれない だいいち医者まで 行くこともできない 治療薬は高くって もらった院外処方箋を破る
4・ひ孫は もう産まれない いや 孫はもう 産めないのだ 産科の医者は 過労で倒れ 金持ちだけが アメリカへ産みにゆく
5・たった2パーセントの 金持ちたちが 日本の富の95%を持ち 貧乏なものは 孫子まで 生きていくことさえ おぼつかないのだ
6・初夏の夜中 少し認知症の ひとりのオタク老人が 思い出した そうだ俺たちは  団塊の世代 果たせなかった 国会突入を!
7・その夜中 メールは 日本中をとびかった  老人よ、見捨てられた者たちよ! 国会をめざせ! 政府を倒すために!
8・追い詰められた 首相はついに 国防軍への ホットラインをとった 老人のデモ隊へ 発砲せよ!
9・兵士たちは とまどった 自分たちの 爺さんや 婆さんを  撃ち殺せとの 命令に それでも アメリカ軍から 派遣された 司令官は 命令した 引き金を引かなければ お前たちは 軍法裁判だ! 泣きながら 兵士たちは 機関銃を 発射した
10・何万発の 銃弾が しわくちゃの 皮膚を裂き しなびた肉を 骨粗しょう症の骨を こなごなに 吹き飛ばした
11・それでも 老人たちは たじろがなかった 失うものは 命さえ もう何もない ワシ等の世代は 必死で 生きてきたのだ
12・たとえ 精鋭の国防軍でも 何千万の爺さんを 何千万の婆さんを すべて 射殺することはできない
13・ついに 国会正面を突破した 血まみれの 爺さんと婆さんと 兵士たちは 抱きあった 泣きながら ともに 議事堂へ 行進した そして ひとりの 婆さんが 血まみれのTシャツを 議事堂のてっぺんで 高々と 振りかざした 日本国政府に 止めを刺すために
14・この話を 聞いたあなたは たわごとと 言うだろう けれど この国は きっと その夏の 夕暮れに むかって 進んでる

■藤村の遺志を引き継ぐのは「我々老人」だ!

 高田渡(*(1)) の主治医だった藤村は、2009年4月4日の「高田渡生誕会60」(追悼ライブ)で『君こそは友』を発表した。これは高田へのレクイエムであり、その後、元「五つの赤い風船」の長野隆や、京都、関西を中心としたミュージシャン38人と共に、『君こそは友』一曲を15パターンに演奏し分けたCDを制作した。これが彼の遺作となった。
 藤村は、医師を引退した後は紛争地域で苦しむ子どもたちに対する医療活動に参加したいと考えていたのだが、健康上の事情から実現することはなかった。CD『君こそは友』の売り上げの一部をパレスチナ・ガザ地区の子どもたちにワクチンを送るためのチャリティーにと位置付けながら音楽活動を続けたが、2010年4月27日、敗血症のため死去。享年63だった。
 さて、佐藤学(*(2)) によれば「安全保障関連法案に反対する運動は、日本社会に新しい政治の風景を現出させた。市民一人ひとりが主権者として立ち上がる運動、多様な市民が連帯し統一する運動、そして国会外の市民の統一と連帯によって、国会内の野党の共闘を実現する運動である。この新しい政治運動は、日本の政治活動の風景を一新したと言ってよい。新しい市民社会の創出を求める市民革命は進行している」(*(3))のだそうだ。そして、その市民革命の象徴的存在こそは、「SEALDs」「安全保障関連法案に反対する学者の会」「安保連法案に反対するママの会」…この三者だという。
 佐藤が、テメェとその周辺の「運動」を我田引水にくるめるのは自由だが、日本屈指の教育学者にして大学教授ともあろう者が、2015年夏の、あの国会前のバカ騒ぎを「市民革命」と規定する、この救いがたい主観主義はどうなのだ??(いや、学者で大学教授だから「そうなのだ」と解すべきか)。反知性主義は、この国の支配層だけに蔓延っているのではない。リベラルだの市民主義だのを標榜する輩どもも、反知性主義(=超ウルトラ主観主義)の虜である。
 言わずもがな、この社会が階級社会である限り、資本家と労働者の利害は絶対的に対立する。そして、我々老人(筆者も60歳を越えたので、老人と自己規定する)の解放も、日本国家の解体無くしてあり得ない。たとえ百万の群衆が国会を一年間に亘って取り巻いても、各企業の生産ラインと流通・交通機構が安泰である限り、社会変革は絵に描いた餅であることは二言を要さぬ。即ち、佐藤流の「市民革命」とは、ウンドウやトウソウのサブカルチャー化の別名なのである。
 試しに、小熊英二『社会を変えるには』を一読されよ。そこには「ウイークエンド・カツドウカ(=サブ・カル・社会派オタク)」の心構えと流儀が延々と記されていて、噴飯を誘う。
 2015年夏の、あの国会前のバカ騒ぎ(筆者もそこに参加し、呆れかえって帰阪したひとり)を「市民革命=サブカル」派は、「60年安保闘争」「70年安保闘争」の継承だとして「15年安保闘争」と好んで言う。闘争だと? 笑わせるな! 正しくは「ガス抜き」というのである。藤村が生きていれば、同様の言葉を吐いたに違いない。
 2017年、我々左翼老人群[軍](シニア・レフト)は、絶望の底なし沼の中から、あくまで屈せず立ち上がる道を模索する! 「血で贖われなかった民主主義」(辺見庸)の恥と罰を総身に浴びながら、我々は闘う! 国会突入は、一戦術に過ぎない。
(註)
(1)高田 渡(たかだ わたる、1949 – 2005年)1960年代から約半世紀に亘って活躍したフォークシンガー。父親は、詩人・活動家・元共産党員の高田豊。代表曲に「自衛隊に入ろう」「転身」「しらみの旅」「生活の柄」「長屋の路地に」「鉱夫の祈り」などがある。
(2)佐藤 学(さとう まなぶ、1951年 – )教育学者。学習院大学教授、東京大学名誉教授。「安全保障関連法案に反対する学者の会」発起人。
(3)佐藤 学「市民社会の革新と若者の社会運動-SEALDsが開示した地平」(『神奈川大学評論』84号 2016.7.30、P.54)

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