新しい思想の実践的模索は始まっている

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この人に聞く 【戦後71年】 国民の感情動員装置のいまを問う(2)

 

田畑 稔(季報『唯物論研究』編集長)

季報『唯物論研究』編集長、大阪哲学学校世話人、21世紀研究会代表世話人など。主著に『マルクスとアソシエーション』(新泉社、1994年)、『アソシエーション革命へ』(共編著、社会評論社、2003年)などがある。

 前回で見た通り、ナショナリズムの全世界的活性化が確認できますが、これは「冷戦構造終焉後の過渡期の現象」と見るべきでしょう。ナショナリズムが21世紀の人類の抱える課題を解決する思想とは考えにくい。むしろ私は、1990年前後の冷戦構造の崩壊や経済グローバル化を機に、世界でも日本でも新しい歴史運動、新しい思想の実践的模索の時代がすでに始まっている、と考えたいのです。

古い対抗諸勢力の退潮

 日本の場合、安倍政権の暴走を許した直接の原因は民主党政権への幻想と幻滅でした。しかしその背景には、戦後の第1期(1945~60年)や第2期(1960~90年)で曲がりなりにも再生産されてきた社会的政治的な対抗諸勢力が大きく退潮したことがありました。
 戦後の日本の大衆的社会主義運動の中心は、社会党と総評(その地区評議会)だったといえます。平和運動、文化運動、学生運動なども、その周りにありました。しかし、国労解体(1987年)、総評解散(1989年)、小選挙区制移行(1994年)などで、広い意味での社会主義的対抗波の大きな歴史的退潮となりました。これは、フォーディズム経済(成長経済と春闘方式)の終焉、そしてグローバル経済への移行に伴う厳しい新自由主義的分断攻撃の結果でした。しかし、ベルリンの壁崩壊(1989年)や旧ソ連崩壊(1991年)など世界史的大事件とも直接、間接に連動していたと言えるでしょう。
 古い対抗波は退潮すべくして退潮した、と見るべきです。時間がかかっても、しっかりした諸原理に基づく新しい対抗諸運動の構築が問われていると思います。過去の左翼や新左翼や市民運動の達成や誤謬の総括は、とくにそれに人生を重ねた人間には自分の人生の意味の確認でもあって、避けられないものです。
 しかし、総括だけにとらわれてはだめです。新しい歴史諸運動の展開とそれを支える新しい諸思想のポジティヴな提示の努力が、すでに問われていることを自覚しなければなりません。それに関与し、未来へ向かう方向性が定まって、初めて過去も本当の意味で総括できるのです。

新しい対抗諸運動の多様性と行動の相互調整

 この新しい対抗波は、古いそれと較べると比較的に同質性や安定性に欠け、むしろ行動調整的、政策調整的な連携の力という性格が強いように思われます。具体的に確認しておきましょう。
(1)エコロジーや反原発運動やグリーン系党派は、経済成長至上主義、自然支配や科学技術万能という神話からの脱却、オールタナティブなライフスタイルへの転換の闘いを進めています。
(2)フェミニズムは、性関係、家族、会社、国家を貫く男性支配、父権支配、性的マイノリティー排除との闘いをよびかけています。
(3)「九条の思想」は、「国家の安全保障」から「人間の安全保障」へのシフトをよびかけ、また「しない平和」(反戦)と「する平和」(平和構築、つまり紛争地域での生活基盤再構築の闘い)の両面の実践をよびかけています。
(4)リベラリズムは、報道、言論、結社、教育、研究、表現文化などへの国家権力の干渉から、また全体主義イデオロギーによる不寛容な攻撃から自由な言論・表現を守ることの重要性を訴えています。
(5)市民主義は、主権の能動的構成メンバーとしての「市民」が、政治家や官僚に政治を委ねず、直接行動を組織し、また市民の自主的連帯組織で「市民社会」を積極的に組織することをよびかけています。
(6)社会主義は、反貧困や連帯経済や職場の人権のための連帯行動を組織し(いわばミクロの社会主義)、また資本主義の業病ともいえる競争万能主義、自己目的としての営利追求、貧困と格差の拡大、経営権力の乱用などへの制度化された対抗力を組織する(いわばマクロの社会主義)という独自な存在理由を持ち続けています。
(7)最後にヒューマニズムは現在、「個人の尊厳」をはじめとするヒューマン・ライツの国際条約化という形をとって展開されており、現実の人権情況は非常に厳しいものの、差別や貧困や虐待や人身売買や国家暴力から、国家帰属を超えて、地球上のすべての人間を守ろうとする意志を確認しています。
 これら諸運動の多様性は、運動の分散ではありません。人類が「ポスト資本主義」の時代を切り開くための課題の多面性を表現している、と見るべきでしょう。これら諸運動が対抗陣地としての力をもつためには、相互の直接の問題意識のズレや対立を前提にしつつ、まずは「地域」で立体的につながり、諸運動間の行動調整や共同行動を蓄積していくことがカギになる。その中で、運動間の問題意識の総合や再編も進み、いくつかの新たな思想の創発へとつながることも期待できるのではないでしょうか。以下、それに必要と思われるいくつかの確認をしておきたいと思います。

「アソシエートした知性」(マルクス)の認識論と組織論

 かつて強調された「一枚岩の前衛党」は、一方向の指導性を前提し、「分派」も禁じ、建前上無謬性を誇りがちでした。党内の意見を異にするものへの査問や除名、殺戮を伴う激しい党派間攻撃も、この無謬性の建前と表裏一体であると思われます。この組織論は、社会に拡大されると収容所社会をつくってしまう危険を孕んでいます。
 アソシエーション(市民の自主的連帯組織)型の運動は、まずは問題意識の「パースペクティヴ性」(見る位置により世界の見え方が違う)を積極的に認め、運動論や組織論に組み込まねばなりません。女性の視点、非正規雇用者の視点、沖縄の視点などは、当事者たちが独自に「アソシエートする技」を発揮し、「声を荒げて」訴えてはじめて、我々は「知的に」理解しようと真剣に努力し、マルクスの言う協議と合意の「アソシエートした知性」へ至ろうとするのです。「アソシエートした知性」は、懐疑論や価値相対主義とは区別されねばならなりませんが、しかし「一枚岩」のドグマティズムでもありえず、討議や協議や相互調整のコミュニケーション文化に支えられたものです。
 アソシエーション間の相互調整は、直面する政治課題についての行動調整、政策上の協議と合意形成を行う政策的調整、経済的連携をめざす経済的調整、倫理問題を協議する倫理調整など、いろいろなレベルがあります。しかし、ベースは明らかに行動調整と共同行動の組織化であって、これがさらなる協議やさらなる調整のための信頼ベースを築くのです。
 対抗陣地構築で特に重要と思われるのは、多領域多目的の諸アソシエーションの地域ネットワーク形成と運動の立体化にあるでしょう。たとえば新しい協同組合、新しいユニオン、障がい者団体、フェミニズム団体、九条の会、エコロジー団体、弁護士などが、闘う議員たちを擁立して連携し、協議や行動調整を重ねるという形で「地域」の実質を形成していくのです。

「陣地戦」向けの思想と実践へ

 目指す目標も運動の質もまったく違いますが、宗教原理主義から軌道修正して、戦後の日本で「陣地戦」に曲がりなりにも成功したのは創価学会だった、と言えるのではありませんか。左翼の一部にも、少数だったとはいえ50年前後と70年代の2度にわたり武装闘争を選択するという政治的誤謬がありました。圧倒的多数はこれらを批判しましたが、ロシア経由のML主義のもつ「機動戦」的思考様式の根本的払しょくという課題は依然残っているように思われます。
 一例をあげましょう。マルクスは、近代社会では人間たちの生活過程が「物質的生活過程」「社会的生活過程」「政治的生活過程」「精神的生活過程」に歴史的に分節化していると見ています。たとえば、「政治的生活過程」は「社会の公的総括」の活動であり、制度であり、過程なのです(私はこれを「端初規定」と呼んでいる)。我々は、否応なくすべて「公的総括過程」にコミットしているのです。この大前提を確認しないで国家は「階級支配の道具だ」「暴力装置だ」と言うだけでは、陣地戦は闘えないでしょう。
 同じことは「精神的生活過程」についても言えます。「世界について、その中の私の位置について、従ってまた人生の意味について」考えることは、我々すべての根本的関心事なのです。そのことの確認なしに宗教的疎外論や「イデオロギー的倒錯」論だけで済ましていては、生活者や宗教者や表現者たちとの歴史的対話など不可能であり、陣地戦など闘えないでしょう。

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