【東京五輪の返上を】第4回 インターセックスの選手セメンヤに IOCがドーピングを奨励 神戸大学大学院国際文化学研究科教授 小笠原 博毅

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第4回 ジェンダーの牢獄としての五輪

 五輪は、明確な性別分離主義を原則としている。競泳のリレーや卓球のダブルスなど、男女混合のチーム競技もありはする。しかし、そのメンバーが「男」であるか「女」であるかは、あらかじめ決められていなくてはならない。五輪で競技するには、その分離主義を受け入れなければならない。  

性的アイデンティティのゆらぎや多様性が「例外視」されてきたことへの批判が一般化している現在でも、五輪は変わらない。だから、女子800mのロンドン五輪銀、リオデジャネイロ五輪金メダリストであり、世界選手権で金メダルを三度獲得(2009年ベルリン、2011年大邱、2017年ロンドン)した南アフリカのキャスター・セメンヤは、陸上競技者としての人生を宙吊りにされている。  

生まれてからずっと女という自覚のもとに、女として生きてきたセメンヤは、体内に精巣に相当する男性内性器を有しているインターセックスである。そのため、男性ホルモンの一種テストステロン値が相対的に高い。  

IAAF(国際陸上競技連盟)、IOC(国際オリンピック委員会)、そしてCAS(国際スポーツ仲裁裁判所)は、セメンヤを「性未分化症」と判断し、女として競技することを禁じた。出場するためにはテストステロン抑制剤の服用が義務付けられた。  

抑制剤義務化は、彼女にとっては「差別的だが、競技の公平性を保つために必要な処置」だというのである。しかし、自然状態にある身体を化学的処方で変化させるという意味で、皮肉なことにこれは明らかなドーピングの奨励である。  

セメンヤの強さと速さは、男性ホルモンの値が人より少し多いという理由だけで「不正」だとみなされる。しかし彼女の自己ベスト1分54秒25は、世界記録どころか、歴代4位にすぎない。まだ上には3人のランナーがいるのだが、今までセメンヤに勝てなかった選手たちは、口々に「不公平」さを訴えてきた。  

イタリアのエリザ・ピッチオーネは、「彼女(セメンヤ)は男」だと言い切り、イギリスのリンジー・シャープは、テレビ・カメラの前で涙をこぼしながら「この競技は不公平、男と戦っても勝てない」と訴えた。リオ五輪で5位だったポーランドのヨアンナ・ヨズヴィクは、「私は白人としては2位」だと言い切った。  

他人から決められる性別との戦い IOCの人権侵害に批判を

彼女たちの発言は、「人種、宗教、政治、性別、その他に基く、国もしくは個人に対する差別は、いかなるかたちの差別であっても、オリンピック・ムーブメントへの帰属とは相入れない」という五輪憲章に違反してはいないだろうか。  

かつての女子マラソン世界記録保持者イギリスのポーラ・ラトクリフは、「800mに勝つのはキャスター・セメンヤだと初めからわかっているなら、これはもうスポーツじゃない」と言う。では、セメンヤが勝つ理由はトレーニングの成果ではなく、男「だから」女に勝つことが必然だというのだろうか。  

日本人女性初の五輪メダリストである人見絹枝はかつてその日記に、「男にかていかにしても男にかて、強く生きよ、愛する女等」(1924年1月13日「人見絹枝日記」)と記し、女性アスリートにエールを送った。自分たちが勝てない理由を、セメンヤが押し付けられた性別のせいにする白人選手たちの耳に、人見の言葉はどのように聞こえるのだろうか。  

セメンヤのキャリアは、他人から決められる性別との戦いだった。彼女は五輪で走りたかった。だから、彼女を理由に五輪を批判するこのような文章を、彼女はきっと受け入れないだろう。  

しかしそれでも書かなくてはならないのは、セメンヤの存在こそが、五輪の制度的規範が大きく見直されるべきであるということの証明になりうるからである。スポーツする自分の性別を、数値だけを理由に勝手に他人が決めてしまうのだ。  

IOCが特定の選手の自己決定権を否定し、機会を奪い、選手としての人権を侵害していることに、もっと批判的な目を向けるべきではないのか。 (※連載は年明けから再開します)

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