【メンズリブ】実践に学ぶ 社会運動に非暴力は可能か 中村 彰さん(NPO法人SEAN理事。ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン運営スタッフ)インタビュー

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社会運動の場において、異なる立場の人を包括し、問題が起こっても非暴力で乗り越える方法はあるのだろうか。好戦的、権威主義的な態度を排した問題解決の方法を学ぶために、メンズリブなど非暴力の運動に携わった人に話を聞いてみた。第1回は日本のメンズリブの草分け的な存在、中村彰さん。 (聞き手・谷町邦子)

 1989年、京都新聞の記者時代、女性の知人に誘われ日本女性学研究会に参加したのが、メンズリブへの入り口だった。新聞記者として「会社人間の本音」を語った。「会社とはちがって、本当の気持ちを話せる仲間ができましたね」。  

日本女性学研究会に参加した男性らを中心に、91年4月にメンズリブ研究会が発足。  中村彰さんをはじめ、伊藤公雄さん(大阪大学、京都大学で名誉教授、京都産業大学教授)、水野阿修羅さん(男性問題研究家、釜ヶ崎地域史研究家)、味沢道明さん(日本家族再生センターを開設)、大山治彦さん(四国学院大学教授)という、メンズリブを牽引するメンバーだった。  

90年代メンズリブの興隆と課題

「メンズリブ研究会」ではアジアでの買春や育児、LGBTが抱える困難など、現在にも通じる課題が共有された。さまざまな人を包括する雰囲気があり、報告会では当事者性がある話が求められ、「評論家はいらん、あんた自身はどうなの」と関西人らしいユーモアもあった。  

95年にはメンズリブの市民運動の拠点「メンズセンター」が大阪市中央区に設立され、中村さんは運営委員長に。そして、96年、京都で第1回の「男のフェスティバル」が開催された。「男のフェスティバル」は年1回、関西に限らず関東や中国、四国、九州、沖縄など各地で行われ、韓国など海外からの参加者もいた。メンズリブ漫才や占いもあり、堅苦しくない雰囲気だったそう。  

しかし、主要メンバーが責任の重い仕事に就き、多忙化。第10回から3年ほど間隔が開いた2008年の第11回を最後に、現在は行われていない。世代間の引き継ぎができなかったようだ。全共闘世代などは生きづらさを社会の問題と関連づけて考えるが、若い世代は生きづらさの原因を社会ではなく個人に求める傾向があり、自分の問題が解決するとメンズリブとの関わりをやめてしまう。カウンセリング、悩み相談を利用し、「自分の抱える難題に答えが見つかると、「挨拶はなく、いつのまにか来なくなる」そうで、「戻っておいで」と強いることはできず、関係が切れてしまうのだ。また、中村さんは若い世代のメンズリブとの断絶も感じていて、「もっとつながってもいいのに」と語る。  

対立する相手とどう向き合うか

98年から2017年まで、中村さんは関西各地の女性センターや男女共同参画センター委員、公民館・男女共同参画センターの館長を歴任。行政に携わるなか、「メンズリブ」や男女共同参画などになじみのない人にも関わらなければならない立場となった。  

例えば自治会で力を振るう「地域のボス」的な男性。意見を押し通すためには、相手の意見を抑え込むことも辞さない「マッチョ」な彼らは、新しく赴任した中村さんにとって手ごわい相手だった。さらに、男女共同参画の講座に施設を利用する時など、立場上、理解を得なければいけない場面もある。  

そんな中、中村さんは男女共同参画の理念を理解してもらうのは難しいと思い、ひとまず男女共同参画という言葉を使うのを控えたという。  

「彼らの求める地域活性化など、同じ地元の人間として地域の課題を一緒に解決するというスタンスで話をしました。また、『ボス』のうち一人は料理を作る人だったので、施設を利用しての『男の料理教室』には大賛成。彼らが受け入れやすいことから始めました」。  

プレッシャーを感じることもあったが、「将来には味方になってくれる」と楽観的にかまえ、主義主張で批判せず、相手の言い分も聞きつつ説得したという。  

主義主張の異なる相手でも、糾弾したり、排除したりできない状況もある。中村さんは男女共同参画、根底にあるメンズリブという主義主張をいったん脇に置き、共通の目的を示し理解や協力につなげた。その後、「地域のボス」と中村さんは信頼関係を結び、心強い味方となったそうだ。

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