【時評短評 私の直言】映画からみる「日本国憲法」 国民は戦後をどう認識したか?シネマブロス 宗形 修一

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シネマブロス 宗形 修一

 映画館支配人当時、映画会社が儲かる企画は戦争映画か忠臣蔵と聞いたことがある。しかし敗戦後、占領軍により「戦争映画」と「武士道」映画は制作を禁止された。その後のサンフランシスコ講和条約により、独立を果たしたのち、日本の映画各社は戦争映画・チャンバラ映画の制作に乗り出し、1958年の映画観客10億人の黄金時代をむかえる。  

しかし、ドイツ・イタリアの映画事情は異なる。ドイツはナチ政権を、イタリアはムッソリーニ政権を全面否認して戦後国家を出発させている。日本の戦争映画のように、日米戦争での物量の差での敗北とか、戦死者の犠牲による戦後とかの映画は、一本も作られてはいない。その違いは「天皇制」の存続に起因するものだろう。  

日本政府は、ポツダム宣言を「天皇制存続」を条件にして受諾した。戦後、金森国務大臣は「日本は天皇を憧れの中心として、心のつながりを持って結合した国家で、国体は変わらない」と言い、文部省=中教審も「祖国愛と天皇への敬愛は一つである」と強調した。しかし、東大の宮沢俊義教授は「8月革命説」を唱え、「ポツダム宣言受諾により、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動した」と説明し「法学的意味の革命」であるとした。そうであれば皇軍―天皇陛下の軍隊が連合国軍と戦った映画は作ることができないはずであるが、特攻隊映画を中心に作品は作られ続け(独立プロの反戦を主題にしたものも存在はした)「連合艦隊司令官山本五十六」制作にまで至った。  

敗戦後、昭和天皇は「巡幸」と称して全国をまわり国民を慰撫した?とされる。さらに、沖縄・奄美・南西諸島の100年間に及ぶ占領を申し出た。それを受け日本政府は、1951年のサンフランシスコ条約と同時に日米安保を締結し日本全土基地化可能とし、日本国憲法の上に安保条約がある、現在にいたる国家の骨格をかたちづくった。  

日本の政治体制は変わったのか?

戦後に生まれた私たちは、小学校で「日本は生まれ変わり、日本はアジアのスイス」になるのだと教わった。友達の家庭には天皇の「御真影」があり、子ども同士でも戦争の話になった。町へ出ると傷痍軍人にも必ず出くわした。戦後昭和30年代までは、戦争の影は日本社会を色濃く覆っていた。それと同時に、社会には「天皇制批判」も「自衛隊」違憲論も論争は活発におこなわれた。賛辞一色の今回の皇位継承とは、様相は全く異なっていた。  

映画も独立プロを中心に「人間の条件」「戦争と人間」「壁あつき部屋」など、戦争に苦悩する人間ドラマを多数生み出してきた。  

押し付け「憲法」と改定を主張する政権と、この憲法の平和と民主主義を守ろうとする闘いは、1945年の敗戦と憲法の成立過程の再検証が必要と思われる。また国民も、天皇制イデオロギーに盲目的に従ったわけではない。自分たちの幸福な家庭の物語に擬して「天皇制」を受け入れたのかもしれない。※参照:精文館書店 柴田良保著「映画界を斬る!」1979年

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