【時評短評 私の直言】戦没船員の追悼式 で感じた強い危惧柿山 朗(元外航船長/元海員組合全国委員)

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 5月15日、私は観音崎公園(横須賀市)で行われた戦没・殉職船員追悼式に参加した。海に面した碑文には「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻まれている。太平洋アジア戦争では約6万600名の船員が命を落とした。陸軍が20%、海軍が16%だが、船員の死亡率は43%と突出している。追悼式は君が代斉唱で始まり、観世一門による能楽「海霊」の奉納で閉式した。  

平成天皇の観音崎への「行幸啓」は8回にのぼる。能楽「海霊」の歌詞は「四方の海みなはらから(同胞)と思う世になど波風の立ちさわぐらむ」という、日露戦争を前に明治天皇が詠んだ歌から採っている。この歌は、昭和天皇が太平洋戦争開戦を決定した御前会議で詠まれたことで知られ、明治、昭和天皇までもが「平和主義者」である根拠とされる。天皇の名の下に開戦し、戦争動員態勢の多くは議会の審議を経ず天皇によって制定、公布された命令、勅令で行われ、多くの船員が亡くなった。5月15日のこの日、参院本会議で「天皇皇后両陛下がご清浄であられ、令和の時代が希望であるよう心から祈ります」とする天皇即位の賀詞が、共産党も出席し異論なく議決された。  

犠牲になった船員たちの言葉

「海なお深く―太平洋戦争 船員の体験手記」(全日本海員組合編)、新人物往来社は、数少ない船員の体験手記だ。「敵が上陸してきたら、いかなることがあっても捕まるな。もし捕まると判断したら直ちに自決しろ」(死ね、の訓示で捨てられた遭難船員・江田敏夫東亜海運甲板員)。「火炎の中に向かって『天皇陛下の銃』を取りに引き返した東北出身の純真そのものの若者がどうなったか。どうせ死ぬのなら、俺も海軍艦艇に乗って鉄砲の1発も撃った上で「名誉の戦死」とやらにしてもらいたいものだ」(ガダルカナルから生還・吾妻山丸航海士・本間金一郎)。「船員は靖国神社へは裏口からも入れない」(武藤辰夫・日本郵船香取丸事務員)。「多くの船員が死亡したが、これらの人々が靖国に祀られたとも勲章を授けられたとも聞かない」(高松一夫・日魯漁業秩父丸水夫)。船員たちの怨嗟が記される。  

名誉や靖国という言葉が並ぶが、単純に「英霊として祀ってほしい」と訴えているのではない。栄誉とは無縁だった船員だからこその意地と誇りを、私は読み取る。押し付けの価値観や世襲天皇の権威に身を委ねず、本物の民主主義のために体を張って闘え、という励ましに聞こえる。    

翼賛体制・皇室崇拝の強まり

戦没船員追悼会では、1981年に戦後の海難や労働災害で殉職した船員も合祀することになり、追悼式の名称も「戦没・殉職船員追悼式」と改められた。戦没と殉職の合体は「戦争で死ぬこと」と「労災死」との同一視につながり、平和の問題がこぼれ落ちる。  

運営主体である殉職船員顕彰会で大きな役割を担う海員組合は、ソマリア沖の海賊対策に向かう自衛艦の出国式で「守ってくれてありがとう」の横断幕を掲げる。先の総選挙で中谷、石破、浜田などの防衛族議員が組合推薦候補者として名を連ねた。  

2018年の海員組合の活動方針案では「われわれ船員は、戦没した船員の諸先輩に対する天皇皇后両陛下の長年にわたるご厚情に改めて感謝し、その御心を決して忘れることはない」と記す。戦前に翼賛体制に迎合した皇国海員同盟の綱領が産業報国と皇国発展を主柱にしたことを想起させ、現在の海員組合の防衛力強化、労使協調と皇室崇拝への傾斜に強い危惧を抱かせる。

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