【天皇制を考える】連載 天皇制を考える意見特集(1) 太田 昌国さん(評論家・編集者)

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弱者に「寄り添う」ことで 弱肉強食の政治を補完する

 天皇代替わりイベントが迫っている。編集部は、天皇制について、(1)人民統治の道具、(2)植民地主義の残滓、(3)身分制・差別の象徴であるとして、「廃止すべき」との立場をとってきた。しかし、天皇制への批判的世論は低く、「平和主義者=明仁天皇」のイメージもあって、象徴天皇制は、広く浸透していると言わざるを得ない。しかし一方で、生前退位は天皇制の危機も含んでいる。上記問題意識に対し、評論家・編集者の太田昌国さんに聞いた。 (編集部)

――立憲君主制をとる英国やスペインと比べて、日本の天皇制への批判的世論は圧倒的に低く、4%程度という数字もあります。天皇制がこれほどまでに市民社会に浸透している現実についてのご意見をお願いします。 太田:いま去り行こうとしている天皇は、憲法1条が定める「日本国民統合の象徴」としての役割を、主観的には懸命に果たそうとしてきています。彼の観点からすれば、「国民として」すでに「統合」されている人びとはこのままでよいのです。「国民でありながら」「統合」の枠から外されそうな人びとを何とかつなぎとめておかなければ、「象徴」の役割としては不全だと自覚しているのでしょう。  

この30年間は、虚無感をさえ抱かせるような地震・津波・豪雨などの自然災害が多かった。戦前と戦後を貫く政治・社会体制の中で、十分な経済的・精神的な「ケア」を国家=社会から受けることのなかった一群の人びとがいる現実も露わになった。  

政治は、この人びとに対して決して「暖かく」はない。現安倍政権は特にそうです。この間隙をぬうかのように天皇は、皇后と共に、これらの被災者、戦死者、戦争被害者、「公害」病者、子どもたちに〈寄り添う〉姿勢を見せてきたのです。その「暖かさ」は、冷たい政治=政府との際立った対照性において、人びとの心を「掴む」のです。  

現実を生きる生身の人間は、本来的には、「象徴」のそのようなふるまいや言葉によって救われもしなければ癒されもしない。しかし、弱肉強食の新自由主義路線を基本原理とするグローバリゼーションが世界を制覇して、日々の生活の中で「連帯・協働・相互扶助」を実感できる人は極端に少ない。孤立したその心に、殿上人の架空の権威が忍び込むのです。批判精神が希薄になり、社会の主権者は自分たちであるという権利意識を放棄した心には、それは忍び込みやすい。天皇・皇后の存在によって担保される「幻想の共同性」こそが問題なのです。    

天皇の「退位メッセージ」にしても、高齢化と後継ぎという、多くの人びとが直面している問題を提起したわけで、天皇制に呪縛された人びとの心の中には、私たちと同じ悩みや苦しみを持っているという「親しみ」や「同情」が生み出されたのです。 ――世論の動向を見る時、天皇制批判の論理は、不十分だったといわざるをえません。批判を深化させるには、どのような観点が必要でしょうか? 太田:「戦争の放棄」を定めた憲法9条の前には「天皇」条項があり、天皇条項および皇室典範の規定と、憲法14条(法の下の平等)や24条(両性の平等)とは、解決不能な絶対的な矛盾となります。私たちは、9条の重要性を強調するばかりで、民衆の自律や権利の観点から見た時に天皇条項が不可避的に持つ矛盾や非論理性を十分には批判してこなかった。この問題をしっかり捉えなおす必要があると思います。  

裕仁の戦争責任を覆い隠す「象徴規定」を、歴代政権は大いに活用してきたが、私たちにはそれを見過ごしてきた責任がある。皇族たちの言動に対する批判も、社会支配のために天皇制を利用する政府や右翼民族主義潮流に対する批判も必要ですが、それの存続を許してきた私たち民衆の在り方こそが問われているのだという自覚からすべてが始まるのです。

民衆の革命精神なくして 呪縛から解き放たれることはない

――天皇制賛美派のなかでは、象徴天皇制の在り方、女系を認めるのか?などさまざまな意見や対立があり、代替わりは、天皇制の危機も孕んでいます。天皇制廃止に向けた提言は? 太田:「天皇制の危機」とは、所詮、「あちら側」が「自業自得で」抱えている問題です。民衆の側からの天皇制に対する批判活動が生み出したものではありません。未知数としての新天皇、皇室に入ったがゆえに「病んでいる」新皇后、「後継ぎ」の絶対的な少なさ――「あちら側の」問題は山積しています。制度改革をしなければ、「自滅」の可能性すらあります。  

しかし、こちら側=民衆の側の精神革命なくして、天皇制の呪縛から解き放たれることはないのです。仮に共和制への移行が実現したとしても、主権者が「命を革(あらた)める」過程を経ていなければ、ろくな共和制にならないでしょう。  

天皇制とは、裕仁の時代であった戦前と戦後の歴史が示しているように、他者には過酷な運命を強いておきながら、「絶対無責任」の体制です。「現人神」としての役割、国政に関与できない「象徴でありながら」、今に至る沖縄の現状を占領軍との談合でもたらしたふるまい――そのような裕仁を問責することもなく、天皇に倣って自己免罪してきた、つまり「絶対無責任」体制に随伴してきた民衆自身の問題として捉え返すのです。一見「良さげ」に見える天皇の場合であっても同じです。

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