貨幣と暴力の5000年 資本主義の本性を解明する労作

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デヴィッド・グレーバー 著   負債論

 訳書代表 酒井隆史(社会思想史/大阪府立大学教授)

現代世界最高の人類学者による21世紀の革命的古典

 本紙の読者の方々には、「われわれは99%だ」というスローガンの創作者として紹介するのが一番いいかもしれない。デヴィッド・グレーバーは、オルタグローバリゼーション運動にかかわる活動家でもある人類学者であり、2011年のウォールストリート占拠運動にも積極的にかかわっている。だが、彼はいまや、それと同時期に公刊されたこの『負債論』によって、世界的に知られる研究者となった。
 本書はおそらく、21世紀に公刊された人文書のなかで、もっとも衝撃を与え、またもっとも読まれた本の一冊であろうが、その革新性、独創性、構想の大きさ、ラディカリズム、などといった点で、『資本論』を彷彿させるものである。もちろん、こんなことをいうと、マルクス学者(とりわけ日本ではもうあまりいなくなってしまったのが残念である)のうるさい声も聞こえてきそうだ。だからいっておくが、あの当代随一の頭脳によって推敲に推敲を重ねた結果の緊密な体系性、複雑さ、洞察の深さで、その後に強力に知的・実践的世界を支配した、かのマルクスの書物と、この人類学者による、アメリカ的ともいえるかもしれない、ラフさと親しみやすさをもった書物を比較することははなから間違っているともいえる。
 しかし、この『負債論』が、アカデミズムの流行の浮沈とはあまり関係なく、1990年代からの世界的な運動の展開のなかから出現したものであること、そのなかから課題を汲み取り、時代の巨大な震動と裂け目を壮大な構想をもって理解しようと試みたこと、そのかまえに重なりをみることはできるとおもうのだ。
 本書の原題はDebtであって、マルクスの『資本論』が英語ではCapitalであることにあやかってのものではないかとも思うのだが、われわれもそのひそみにならって『負債論』というタイトルにした。負債というか債務やその帳消しが、ネオリベラルなグローバリゼーションの攻防の焦点であり、現代資本主義の鍵としてあることは、本紙の読者ならすぐピンとくるだろう。そのアクチュアルな課題を、「そもそも負債とはなにか」という大きな問いにつなげ、全面的な人類史や世界史の見直しをおこなったのが本書である。
 「負債」というとやや硬い印象を与えてしまうが、debtは、債務でもあれば、借金でもあり、借りること、負うこと、でもあり、日常のちょっとしたやりとりから国家規模の借金まで、巨大な領域をカバーするものである。だから「そもそも負債とはなにか」と問うことは、ほとんど、われわれがこの世に生まれて、自然やひとのなかで生きて、たがいに何かを「負いあう」とは何か、という根源的な探求につながるのである。
 『資本論』が、資本という資本制生産様式が主要なものになる時代に内在した対象を主要にめぐったものだとするならば、『負債論』もまた資本主義の本性を解明する作業をみずからに課してもいるが、その対象は、人類史とともにある「負債」である。それをキーワードに据えれば、未開社会から文明以降の世界史を概観することができる。そしてそれでもって、マルクスよりもはるかに広大な視野をもって、資本主義を根本から相対化するのである。

おどろくような常識転覆の議論随所に

 ところで、現代の危機に瀕した資本主義を特徴づけるキーワードが債務であることや、金融・信用経済であることは、よく知られているだろう。いまの経済が実体よりも、ヴァーチャルな領域で、信じがたいほどの利益や損失を生んでいることも、知られているだろう。ふつう、この事態は、異例のことと考えられている。本来、経済は実体に根ざすものであって、貨幣もヴァーチャル化は逸脱である、と。ところが、本書はその発想をくつがえす。
 貨幣はそもそもからしてヴァーチャル貨幣であり、経済も基本的にはヴァーチャルな信用をもとに編成されていた。ところが、鋳貨(コイン)が発明され、支配する時代がやってくる。紀元前6世紀ごろからの古代(グレーバーはそれを「枢軸時代」と呼ぶ)と資本主義の時代である。その時代の特徴は、きわめて暴力的で好戦的である、という点にある。
 奴隷制がこの時代に活性化することは一例だ。それに対して、信用貨幣の支配する時代、たとえば中世は、比較的平和であり、奴隷制のような苛烈な暴力支配は緩和される。市場も、競争や搾取よりは、平等や公正がより重んじられる。この議論にはおどろく方もあるかもしれない。
 グレーバーの議論は、それ以外のおおよその議論をヨーロッパ中心主義にみせてしまう、といったほどの多元的視野をもつものであることは、まず注意をうながしておかねばならない。グレーバーは、中世の特性を、中国やイスラームを引き合いにだして論証するのであって、ヨーロッパは中世において異例なまでに極端に暴力的であったというのである(それでもヨーロッパ中世には奴隷制は後退した)。
 本書は、数頁に1回は、おどろくような常識転覆の議論があらわれるが、そのひとつが、ここから導出される時代認識である。つまり、いま、経済のヴァーチャル化として、あたかも新奇で例外的にみえるものは、かつて、信用貨幣が主要であった時代、たとえばメソポタミア文明や中世に常識であったことの回帰にすぎない、というのである。そして、現代は、中世から近代への移行ではなく、古代から中世への移行と比すべきものである、と。

コミュニズムを再考する手がかり

 グレーバーは、本書で、マルクスよりはフランスの人類学者マルセル・モースに依拠しながら、コミュニズムをキー概念と設定する。それは、めざすべき社会の理念ではなく、われわれの生きる日常に根ざす、生きられたコミュニズムであり、それなしでは、この資本主義社会すら成立しない実践的原理である。このコミュニズムとヒエラルキー、そして交換の三つの原理が、グレーバーの壮大なアナキスト世界システム論を構成する要素である。
 この試みは、資本主義の根源的危機にあたって、そのオルタナティヴを左派が展望できないまま空白が生まれ、その空白を排外主義、レイシズム、戦争などが埋めつつあるポスト資本主義の時代にあって、コミュニズムを再考するといった必須の課題へのひとつの手がかりとなるだろう。
 日本の知的環境が、こうした課題を世界の動きのなかで共有するには、この間の閉塞はあまりにいちじるしい。おのずと本書の反応も、日本語環境においては、むずかしいものとなるとはおもう。しかし、こうした課題に共鳴し、わずかでもみずからのものとするひとは、ぜひ手にとってみてほしい。価格を大きく上回るなにかは、必ず獲得できるとおもう。

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